ニューランド

日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群のニューランドのレビュー・感想・評価

4.0
「恋する心の狂おしさと、その(対象を自分勝手に引寄せず·真に崇め、パーソナル独自に·距離を保つ事からの)寂しさ·孤独。しかし、同時にそれはかけがえのない(見果てぬ憧れと)夢の世界。過去に囚われた姿ともいえ、自分は影ともなる。それを捨て未来に向く事も」 。その内なる実現に「間に合った」か·間に合わずとも誠実に向き合い抜けたか、を気にかけ続ける人たちの世界。ずっと観ながら感じていたのは、ジョン·フォードの映画世界の美であり、例によって過剰·無駄な映像処理はフォードに成りきれない自分に対する限界を反転させた形か、終盤はもろ『静かなる男』になる(本当にフォードに接近したを、誇れる延々の例の場面。トリッキーな割り込みはフォードを上回り、友和=永島の体技·その意気と意志もウェイン=マクラグレンに劣るものではない)のだが、必ず自分の側にはっきり戻る語り口。今回も大林の情緒過多·思いいれ暴走かなと思ってると、ヌードや変態サービス等はいつもと変わらず·妙な正統性主張が健在だが、あくまで活劇コメディで、語り手のひとつ奥に、友和~永島~果歩、更にひとつ奥に水島~原~宮城の、(夫婦のケースも)相手への殆どプラトニックに近い澄みきった恋情が、もどかしさが微笑ましさ·毅然とした自分と周りへの世界の組立て、如くに次第に屹立していって、夢のような手に掴めぬ美しいものに浸れてく。普通に描けば、各々の自分の殺し方·相手の立て方は、馬鹿馬鹿しいのだが、世界と描写が同じく普通を平気で踏み外してるので、また身投げのような信頼の受け止め方、流れを変えてしまう利き手の小指切断の真相、の描写のはまり方が作品に素晴らしい説得力をもたらす。尾道の街の元々の風情を原色の衣装対比や端々飾り立ての色彩や昔ながらの人達でひとつ深い異次元を呼起こし、巨大な窓ガラスの組事務所や、不思議に建っている研究所や古映画館のセットを建て込むばかりか、妙に律儀なんだか強引なんだかわからないカット組み、さらには、イキイキ駒落としや·劣化か焼付ムラ的汚れがうごめく·更に絵自体がブレてはみ出し動く映像処理で、鮮やかは認めるも感傷に浸る暇もない、トリッキーで度を越した絵とカメラとフィルム自律世界は、本当の表現の恥じらいを備えた夢の実現だ。
時·場·母のイメージ「夕子さん」を探す旅人が落ち着いた、借金取立ての一見恐いお兄さんの所に、現·彼の妻で、共通し大事に思いこがれてきた「夕子」さんの為に、彼らの未来を与える為、親友で元々組の跡継ぎの男が戻ってくる話は、大林の最良の1本であると思う。ずっと、晩年2本の偉大な映画でやっとファンになれたと思っていたが、ざっと40数年の間に観れた作品の評点を改めて振り返ると、『さびしん~』『廃市』『野ゆき~』には傑作点を付けてるし、これまでタイトルもよく知らなかった本作を入れると商業映画初期10年で、4本傑作があるというのは、凄い方と気づいたりする。しかも晩年2作は商業デビュー前の脚本のやっとの映像化実現作品なのだ。傑作6本というのは、自分の中では、日本で特に評価·人気の高いトリュフォやイーストウッド、山田洋次をひとつ上回った。しかし、知り合いに大林の最高作であるは昔から広く自明の事と言われ、不明を恥じた。
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