kkkのk太郎

スカイ・クロラ The Sky Crawlersのkkkのk太郎のネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます

レシプロ戦闘機に乗り日夜戦いを続ける「キルドレ」と呼ばれる青年たちの灰色の日常を描き出した戦争ドラマ。

監督は『うる星やつら』シリーズや『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』シリーズの、巨匠・押井守。

感情表現が希薄な新任パイロット、函南優一の声を演じるのは『誰も知らない』『硫黄島からの手紙』の加瀬亮。
優一たちが行きつけにしているダイナーのマスターの声を演じるのは『ウォーターボーイズ』シリーズや『ピンポン』の竹中直人。

脚本監修を務めるのは『GO』『世界の中心で、愛をさけぶ』で知られる映画監督の行定勲。

いやぁ、退屈!!
こんなに退屈なアニメ映画はないんじゃないかというくらい退屈な作品。
しかし、だからこれが悪い映画なのかと言われるとそこにはNOと言いたい。
押井守作品のファンのことを「オシイスト」なんて呼んだりしますが、我々オシイストにとってこの程度の退屈さはなんでもないことなんです。むしろ「面白かったらどうしよう…」くらいの感じで作品を見ますからね。そんなんもう異常者やんと自分でも思いますが、この退屈さを求めて我々は押井の映画を観てるんです。もしこの作品の退屈さを許容できたのなら、あなたも立派なオシイスト👏

原作は小説家・森博嗣による同名小説。未読だから映画との差異は不明だが、まあ押井守のことだから大枠だけ原作をなぞってあとはほぼオリジナルみたいな作り方を今回もしてるんだろう。
ただ、不思議に思ったのは登場人物の名前。ヒロイン・草薙水素の名前は『攻殻機動隊』シリーズの主人公である草薙素子にクリソツだし、謎の人物・クリタジンロウのファーストネームは押井が脚本を手がけたアニメ映画『人狼 JIN-ROH』(2000)と響きが一緒。流石にこれは偶然とは思えない。
もしかして森博嗣先生もオシイスト?

手元にあった「押井守の映画 50年50本」(押井守 著、2020年8月、立東舎)や「創造元年1968」(笠井潔/押井守 著、2016年10月、作品社)をペラペラ捲ってみると、なかなか興味深い事が書いてある。
まず押井監督は興行的には不振だったことを認めつつも、この作品のことをめちゃくちゃ気に入っている模様。
本当に納得のできるアニメ映画が作れたのは本作が初めてであり、それ以前の作品は全て習作であると言い切っている。また機会があればディレクターズ・カット版を作りたいとのこと。半端じゃない入れ込み方である。

押井が本作でやりたかったのは「時間」を表現すること。ここで言う「時間」とは2時間とか3時間とか言う客観的な時間ではなく、映画自体が持つ主観的な時間のこと。監督が意識的に作り出す時間のことなんだとか。
押井曰く、映画においてセリフやアクションの最中は時間は流れていない。その合間にこそ映画の時間は流れる。アニメーションは絵の連なりなので、セリフやアクションがない時間というのは存在しない。それはただの静止画になってしまうから。
本作ではそこに切り込んでおり、「何も起きない時間」というアニメーションが最も不得手としているものを表現しようとした、とのことである。静止画に見えるような静かなシーンでも、本物の人間がとるような無意識な動きをキャラクターに取り入れる。そうすることで静止しているようでしていない、ダラっとした時間の流れを表現することに成功している。
もちろんこれは西尾鉄也をはじめとするプロダクションI.Gの精鋭アニメーターたちの、繊細で丁寧な技巧があって初めて実現可能なことであり、普通のアニメではまず不可能。超実力派アニメーターを大量に導入して、やらせることは新聞を畳んだりボタンを外したりという細かな日常芝居。贅沢というか無駄遣いというか…。まぁそこが良いんですけどね。

監督が参考にしたのはヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』(1984)。この映画に流れている主観的な時間を自分でも実現してみようというのがこの作品の狙いだったようなのだが、面白いのは押井は『パリ、テキサス』のことを「退屈すぎて死にそうになる」と評していること。
退屈すぎると感じる映画を作品作りの反面教師にする、というのはよくわかる。しかし、その映画を参考にして同じような時間感覚を持つ映画を自分で作り出すというのは、はっきり言って完全に狂ってる。
本作は見事に退屈なのだから、押井監督の目論見は成功したということなのだろう。だから納得出来る映画が出来たと自画自賛しているのだろうが、それってオシイスト以外の観客からしてみたらたまったもんじゃないよね💦
まあでも、我々オシイストは押井守のこういうねじくれたところを愛している訳ですが…。

押井監督が構想するディレクターズ・カット版とは、空中戦やアクションシーンを全てカットし、キルドレたちの日常のみを描くというもの。
普通の観客は「そんなもん誰が観たいんだよ…」と思うことだろうが、個人的にその目論見は至極真っ当と思う。
というのも、映画全体のトーンから考えると、確かにこの映画のドッグファイトには取ってつけたかのような不自然さがある。「客寄せのために仕方なく入れました」みたいな白々しさが感じられるのだ。
個人的にこの映画で最高の感覚だと思ったのは、草薙・函南・土岐野の3人がボーリングをするシーン。三者三様のスローイングフォーム、ボールの重さが確かに伝わる重力移動、ボールがリターンしてくるまでの所在無さなど、本当にこのシーンには超絶精緻な作画技術が詰め込まれている。もうこういう細かいアニメの動きが本当に素晴らしく、ここだけで2時間くらいあっても良いんじゃないかというくらい満足してしまった。
現実的なことをあえてアニメで描く、その際に生じる違和感こそがアニメ作品の醍醐味だと思うんです。派手なバトルとかエフェクトなんて二の次三の次。
その日常演技の技術が高ければ高いほど、生じる違和感も強まり快感度数も増す。そういう風にアニメを観ている人間にとって、この映画の演出は本当に眼福です…😋

物語の内容自体は、まあ可もなく不可もなく。
『攻殻機動隊』同様、『ブレードランナー』(1982)みたいな事がやりたかったんだな、という感想。函南とか草薙が逃げ出してたら、それこそまんま『ブレラン』だったよね。
退屈さという点では、オリジナルよりも続編である『ブレードランナー2049』(2017)に近いかも。アンドロイドが妊娠するという展開も一緒だし。
もしかしたらヴィルヌーヴ監督は本作からインスパイアを受けたのかも。実は彼もオシイストなのかも知れない…。

生の実感が湧かない若者の灰色さというのは確かによく表現できていたが、キルドレという設定を上手く扱えていたかは疑問。別にキルドレじゃなくても全然成り立つ話ですよねこれ?
いつまでも子供のまま、というのはモラトリアムのメタファーだというのはわかるのだが、子供/大人の対比が絵としてわかりにくい。函南たちキルドレがあんまり子供に見えない。
日本アニメにおいては、彼らよりももっと幼くデザインされたキャラが普通に戦ったりなんだりしている訳だから、このキャラデザで「僕らは子供です」と言われても説得力がない。子供ということを強調したいのであればもっと頭身を低くするとか、ショタ声の声優をキャラに当てがうとか、もう一工夫が必要だったんじゃないか?

もう一つ気になったのは終盤の説明台詞。
戦争の実態やキルドレの正体、クリタジンロウという人物についてなど、ほとんど説明がなされないまま物語は進んでいく。ただ、物語の端々で描かれている事柄から観客としては大体こういうことなんだな、という推測はできるし、その推測はおおかた当たっている。
わざわざ草薙や三ツ矢に怒涛の説明台詞を喋らせてしまったせいで、それまでのシャープな語り口が急にブサイクなものになってしまった。もう少し観客の読解力を信用してほしい。

本作を最後に、押井はアニメ映画の監督をしていない。
この映画がコケたせいでなかなか撮らせてもらえなくなったのかもしれないし、本人に興味がなくなったのかもしれない。
ただ一つ言えるのは、押井の戦場は実写ではなくアニメの世界であるということ。ただただつまらないだけの実写映画を撮ってる暇があったら、つまらないけど中身の詰まったアニメ映画を撮ってくれ!!

…「タバコを吸わない上司は信用しないことにしてる」って、それ宮崎駿のことを意識したセリフですよね。本当に押井は宮さんの事が大好きなのね〜…😏
kkkのk太郎

kkkのk太郎