ろく

劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [前編] 君の列車は生存戦略のろくのレビュー・感想・評価

4.4
もともとアニメ版が大好きなんで多少の身びいきがあるかもしれなけど、それでも10年かかってイクニが完成させたこの映画版を蔑む言葉は見つからない。

アニメ版と違い冒頭で二人の少年のシーンが出る(アニメを見ている人なら余裕でわかるがそこがプロローグでありながらエピローグであることにニヤリとさせられるだろう)。それだけでもう気持ちはピングドラム一直線だ。

今回は考察。

そもそも冒頭からでてくる執拗な「95」のロゴ、さらには電車のシーンでこの物語は「オウム」の物語だとわかる。オウムだと森達也が追っかけていたが(「A」「A2」)大事なのは「残されたものはこの事件とどう付き合うか」なのがわかるだろう。

僕も若いころは「それは家族とは関係ない」「僕と国家は繋がってない」という責任から逃れる会話をしていた。そこには「個人」という仮想な産物を妄信していたことがあったと思う。ただ、ポランニーあたりが言っているように「個人」の上には「国家」「地域」があり、下には「細胞」「ゲノム」がある。そもそも個人ですら「一つのもの」と語れるかどうか。そう、そのような概念の中で(個人という言葉だけを特権化して)「あれは関係ない」と簡単に語れるものではない。

ドイツはナチスのやったことに対していまだに責任を考えている。日本では従軍慰安婦問題に対し、朝鮮人虐殺の問題に対し「目を向けている」人が多くいる。その中で「あれは僕と関係ないから」と簡単に言えるだろうか。

翻ってこの映画。そう、この映画はその簡単に言えないことに対ししっかりと答えようとしている。当然そこにあるのは「僕はやってない」「家族はやった」の背反だ。そしてイクニは後編でその答えをだすだろう。そこには葛藤がある。浅田彰のように(あるいはひろゆきのように)「逃げればいいんだ」なんてことは言えない。なぜなら、目の前の苹果を捨てて逃げれることはその時点で「僕/私が僕/私でなくなる」ことだからだ。そしてその葛藤こそが「生きる」という意味であるかもしれない。

前篇では物語は佳境に入ってない。ただし、少しづつ僕らを侵食してくる。そして後篇、この考察は次回に続く(珍しくシリアス)。
ろく

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