家族の重み、民族の重み、物心ついた頃から住んでいる場所にいるだけで、アイデンティティを問われ続けること、どうしようもなく「外」なこと、そしてある意味では一番近い存在なのに、タコピー並にサーリャの現実に想像がつかないキラキラぼうやソウタ……言語をまたぐ橋になる辛さ、東京と埼玉の間にかかる橋を乗り越えてはならない辛さ、ちょっとしたセリフが示唆する世界が豊か。
そして何より、それを映画として「体験」して、今日明日、保って1週間くらいは反響が身体に残ってて、でもきっとそのうち「消化」して忘れてしまうであろう私。忘れても自分は何不自由なく暮らしていけるから。自分の国が起こしていることなのに。
難民という、コミュニティもない、伝える言葉もない、数も少ない集団が声を伝えるのに、非当事者の力が必要なのに、この現状を知っていながら具体的に動かないでいる私。せいぜいがストーリーでフィードを共有するのが関の山な私。