ヨーク

蝶採りのヨークのレビュー・感想・評価

蝶採り(1992年製作の映画)
3.9
イオセリアーニ特集三本目。
92年の作品らしいので多分ジョージアじゃなくてフランス時代の作品であろう。『蝶採り』というとなんとも風雅というか高等遊民のお遊び的なワードという感じもするが、そういう優雅で古き良きだった時代がかつてのことであったという事実を皮肉とユーモアを交えて描く映画であったと思う。ただ、昔は良かったという懐古主義に留まるだけではなくて良くも悪くも時代は変わるし、変わっていってもまぁ何とかなるだろうというような楽観さは相変わらずある。
そして面白いのは、そういう変わりゆくものたちを描いていながら本作の登場人物はほとんどがジジババであるということだったな。若い世代が奮闘して時代を動かしていくぜ! みたいな気張ったものでは全くなくて、老人たちが「私たちがいいなと思った時代はもう過去になったけど、まぁそれはそれでいいか」というような達観を持って舞台から去っていくお話でした。
お話の舞台はフランスの田舎だと思うのだが、元貴族なのか何なのか古城に住んでいる老婦人二人がいて、彼女らは日々楽しく余生を過ごしているんですよ。飲んだくれの神父と談笑したり、ゲートボールだったかペタンクだったかに興じたり、合唱だったかバンド的な合奏だったか忘れたけど音楽を楽しんだりもしている。だがそんな悠々自適な老後ライフもいつまでもは続かずに老婦人の片方であり、古城の城主の方が亡くなるんですよね。んでお城そのものも含めた彼女の遺産を求めて集まってきた親戚たちや、折しもバブル経済真っただ中の日本の成金が古城を買い取ろうとしてやってくる、さてさて老婦人が過ごしたお城はどうなるかというお話ですね。
こう書くと遺産相続もので欲に塗れた身内の姿を皮肉っぽく描く映画、という風に思われるかもしれない。いやまぁその側面はある。確かにあるけど、本作は118分あるんだけど問題の老婦人は中盤くらいまで死なないんですよね。じゃあ最初の一時間くらい何やってんだよ、と言われたら、それはまぁ上記したように飲んだり音楽を楽しんだりゲートボールとかペタンクとかやって遊んでる。出てくる登場人物こそジジババばかりだけど、まるでこの世の楽園のようにさえ思える感じで、イオセリアーニ作品の感想では毎回のように「緩い映画」(いい意味でね!)と書いているが本作でもその緩々さは健在なのであった。
しかし流石イオセリアーニで、その緩々さの中にも鋭い皮肉が込められており、作中で流れるラジオかテレビ(居眠りしてたのでうろおぼえ)では登場人物のジジババたちが楽しく暮らす田舎の外側ではテロが起きていることを告げる。また城主が死んで人手に渡った城は建物こそ残されるものの家具は捨てられてしまう。ここは非常に面白かったんだけど、本作ではコミュニティの内部にある歴史や文化というものを尊重しない外部からの人間がやってきて「素晴らしい建物ですね!」とその上っ面だけを褒め称えて中身のものは捨ててしまうという、そういう無知さと野蛮さを皮肉たっぷりに描いた映画だと思いましたね。
古城の内部は凄く美しい陰影で撮影されているし、そこかしこに一族の写真や肖像画が飾られていてその内部で受け継がれてきたものを観客に感じさせるのだけれど、外からやって来た者には外枠である建物の良さは分かってもその中にあった一族の歴史のひだまでは分からない。それは多分、イオセリアーニ監督の来歴を考えるにジョージアという国が歴史的に大国に翻弄されてきたという歴史的な経緯も含め、それを本作でのフランスの田舎の古城に重ね合わせたということなのだろう。
そこは凄くいい感じに演出されてたと思いますね。タイトルでもある『蝶採り』はもしかしたらフランス人であり女流画家でもあったベルト・モリゾの『蝶々捕り』から引用したのかもしれないが、その画でも親密な家族間の愛情や慈愛のある眼差しといったコミュニティの内部に蓄積された記憶や関係性といったものが描かれるのである。
だけどイオセリアーニが偉いのは、時代が移り変わってそういう美しさが失われることに対してただ悲観的なだけでなく、この感想文の最初に書いたようにすべてが変化していってもまぁ何とかなるだろう、という楽観さを示すところであると思う。過去は過去であり、それが過ぎ去っていってしまった時点でもう幻想にすぎない、だからいつまでもそんなのばかり見ていてはダメだよという風に映画は終わる。それは皮肉たっぷりな「財」にも表れているし、あからさまに戯画的に描かれる汽車の爆破もそうなのであろう。
基本的に緩々な映画なのは間違いないんだけど、そういう風にちゃんと締めるとこ締めてるからイオセリアーニ凄いなって思いますよ。まぁまだ三本目なんだが、できるだけ観たいとは思いますね。面白かった。
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