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蝶採りのきのレビュー・感想・評価

蝶採り(1992年製作の映画)
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大感動の嵐。古城バイオネット城に暮らす老婦人マリー=アニエスとそのいとこの暮らしがあんまりにもたのしい。車椅子に乗るマリー=アニエスは、城の敷地内でピストル射撃を優雅に楽しみ、その近くでは、城に居候してる謎のベジタリアン集団が音楽を奏で、いとこは城を管理しながら、町のオーケストラへはトロンボーンを裸のまま肩にしょって自転車に乗るし、池の魚を弓を使って採る。城には亡霊も暮らしていて、よなよなくつろいだりしている。教会の神父さんは飲んだくれで、バイオネット城のお隣に棲む公証人アンリの家では、傷がつくからと、犬たちまでもスリッパを履かされている。前半部分の、生者/死者、人種の違いや共有する歴史の違いを超えた「ここにはもうない」ユートピアとしての城の日常が、あまりにもたのしい。それが、マリー=アニエスが死に、妹エレーヌに相続されたとたん、牧歌的だったユートピアはもろくも崩れ去ってしまう。城=お金と見る人々がうじゃうじゃ湧いて、こんなはずじゃあなかった人生を取り戻そうと躍起になる姿はこっけいでもあり(ずっと文句と喧嘩)、悲しくもあった。しかも城=歴史を尊重するエレーヌの娘は、城=お金と見ているから、あっけなく城を買い取りたかった日本人へ売却され、歴史的な価値があった(とされる)家具たちは用無しに。威厳のあったバイオネット城は、調和の取れない陳腐な城へと変化する。その変化の具合は、あっというまだし、ユートピアは絶妙なバランスゆえに成り立っていたから、もろく崩れやすく、ユートピアを知っていたひとびとはもうここにはいないということを考えれば、これはこれでハッピーエンドなのかもしれない。あらゆる人々が暮らしていたバイオネット城は、いまや日本人たちが占拠し、そこにはある種の「国家」というものが成り立ってはいるが、だれもが居心地のよい空間ではないし、城を売ったお金で金持ちになったエレーヌの娘は、ロシア人たちとパリのアパートではしゃぎたおすが、エレーヌはちいさな一画でカーテンに仕切られて、そこに歴史=肖像画たちに囲まれて暮らす、居心地の悪い空間へとなっている。かつては存在した共存という可能性を示唆するユートピア的な前半から、歴史への敬意のなさ(つまり人に対する敬意のなさ)を痛烈に批判したたいへん傑作な作品だった!マチュー・ちょい出し・アマルリックも拝めました。
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