kentaromoriさんの映画レビュー・感想・評価 - 6ページ目

わたし達はおとな(2022年製作の映画)

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中身がないのに時間軸を切り貼りして中身があるかのように見せかけている。 
プレゼンが達者なコンサルが作ったパワポみたいな映画である。

ぼくたちは見た ―ガザ・サムニ家の子どもたち―(2011年製作の映画)

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「家族が亡くなった場所だからこの家に来るのが好きなの、住みたいくらい。 
ここに来て思い出すの。お父さんやお母さんや家族がどんな目にあったか」

移動する記憶装置展(2023年製作の映画)

5.0

「あの、なんかとても・・・いい所ですねぇ」

「移動する記憶装置」=人間 
ex.『二重のまち/交代地のうたを編む』『王国(あるいはその家について)』『東京の生活史』

ペルリンプスと秘密の森(2022年製作の映画)

5.0

『父を探して』の監督、待望の第二作 
感涙! 

「色」が物語を推進させる。 
音が鳴る、その音で木の葉が落ちる、風で木の葉が飛んでいくその方向を示す、そこへ向かって走る。 

「私は生き直すことがで
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Terminal USA(原題)(1993年製作の映画)

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アメリカナイズされてドラッグ漬けになったジャップたちよ!

岡山の娘(2008年製作の映画)

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福間健二は世界を肯定する 
「すぐれた文学は読む人を励ますものだ」という大江健三郎の言葉を思い出す。

太陽と踊らせて(2020年製作の映画)

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イビサ!バレアリック! 

そしてジェントリフィケーションによって変わりゆくイビサ、、、

越後奥三面 第二部 ふるさとは消えたか(1996年製作の映画)

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村の最後の日々 

運び出される数々の民具、それらは「この場所」でないと力を発揮しないだろうことを予感させる

越後奥三面 山に生かされた日々(1984年製作の映画)

5.0

ダムで沈められる村  

狩り、山菜採り、漁、畑作、祭りや習俗、すべてが豊かであるだけにもうこの村が丸ごと無いことが、ものがなしい 

柳田國男や宮本常一を読んでいるときのよろこびがこの村にある

南スーダンで生きる ~ある家族の物語~(2022年製作の映画)

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「アフリカで最も長く続いた内戦は1983〜2005年にスーダンで起こった」
2011年に独立してからも内戦は続いている

GIFT(2023年製作の映画)

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「水は低い方へ流れる」
遠いどこかで起こっていることもいつかここにやってくるし、今ここで起こっていることもいつかどこかへつながっている、責任がある

沈黙を破る(2009年製作の映画)

5.0

元イスラエル軍兵士による自己批判 
イスラエルの中にもこうした運動があることは「希望」だといえるが、

きのう生まれたわけじゃない(2023年製作の映画)

5.0

2023ベスト 

冒頭から泣きどおし 
出演者全員の声が素晴らしい 

カラッとした気持ちよさがある、でも明るいわけではない

唯一、ゲオルギア(1994年製作の映画)

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様々なものが混ざり合って一つの共同体になる様は、彼らの素晴らしい「多声混唱」に象徴されている 

イオセリアーニが故郷ジョージアの危機を前に製作したこのドキュメンタリーを見た今となっては、他のイオセリ
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月の寵児たち(1985年製作の映画)

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大傑作 
経済・交通・ブレッソン 
あらゆるイメージは別のイメージに変換・交換される 

「交換は常に贈与か略奪かであり、等価交換という均衡に落ち着くことは決してありえないのである。」(絓秀実『革命的
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そして光ありき(1989年製作の映画)

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「この地に永遠に呪いあれ!」
呪われた土地を侵略者は開拓するのだ

ガーダ パレスチナの詩(2005年製作の映画)

5.0

オスロ合意の年に結婚したガーダ。  

彼女は、第二次インティファーダでいとこが殺されたことをきっかけに、1948年イスラエル侵略時のことを女性たちに話を聞いて、本を執筆することを決める。 

家を破
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早すぎる、遅すぎる、(1982年製作の映画)

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すべての革命はのるかそるかであり、すべての革命は早すぎるか遅すぎるかである。 

ところで、ずっと鳴いてる鳥さんたちはどこにいるんだろうか?

田園詩(1976年製作の映画)

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それまでの喧騒は、ラストの別れの後の寂しさ・空しさのためにある

沖縄久高島のイザイホー(1979年製作の映画)

5.0

12年に一度行われる、女性中心のお祭り「イザイホー」 
この映画が撮られた1978年以降イザイホーは行われていない

アミラ・ハス ―イスラエル人記者が語る“占領”―(2019年製作の映画)

5.0

何が問題か。 
ジェノサイドからの救済としてつくられた国の人たちが今、ジェノサイドをしているということだ。