ナガエ

水深ゼロメートルからのナガエのレビュー・感想・評価

水深ゼロメートルから(2024年製作の映画)
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いやー、これはメチャクチャ面白かった!正直観ない可能性の方が高かったから、観に行って良かったなぁ。しかも、全然狙ったわけではなかったけどトークイベント付きで、そのトークイベントも面白かったからとても得した気分である。

本作は、映画『アルプススタンドのはしの方』(僕は観てない)と同じシステムで、高校演劇を劇場映画版にしたものである。トークイベントで語られていた話については後で触れるが、本作が映画化に至った遍歴だけざっくり書いておくと、

「高校演劇の全国大会の予選で最優秀賞」→「コロナ禍のため、翌年の全国大会中止」→「運営から『映像で提出するように』と言われる」→「『演劇をそのまま映像に撮るのは嫌だよね』と顧問が説得して、自主制作映画として映像化」→「商業演劇化」→「商業映画化」

という流れのようである。もちろん、元になった脚本は、当時高校3年生だった中田夢花が手掛けており、本作にもその名がクレジットされている通り、映画版の脚本についても監督の山下敦弘と共に共同で作り上げたそうだ。

という、その制作過程も実に興味深い作品である。

というわけで書きたいことは色々あるのだが、まずは内容の紹介からいこう。

舞台はとある高校の「水の抜けたプール」。すぐ隣がグラウンドで、野球部が練習していることもあり、プールの底には砂が堆積している。そしてそんなプールで、夏休みの午後のひとときの時間を鮮やかに切り取った作品だ。

最初にプールにいたのはミク。うちわを背中に挟んだ格好で何か踊ろうとしている。どうやら、阿波踊りの練習のようだ。そこに、チヅルがやってくる。彼女は水のないプールに飛び込み、砂だらけのプールの底で水かきをしては”泳いで”いる。チヅルはミクに「見ないでよ」といい、ミクはミクでチヅルに「見ないでよ」と口にする。

そこにやってきたのがココロ。彼女は、プールに水が張られていないことを不審がる。そして、体育の女教師山本への文句。そこに、その山本がやってきた。どうやら、ミクとココロはプールの補習として呼ばれたようだ。ココロは、補習なのに水が張られていないことに驚いたというわけだ。

山本は2人に、「プールの底の砂を掃くように」と告げる。はぁ?それが補習?とココロは反応するが、ミクは大人しく砂を集め始める。ココロは山本からメイクを咎められ、補習でもないのにその場にいたチヅルに「邪魔しないで下さいね」と口にする。学校でも有名なのだろう、厳しい教師のようだ。

そんな風にして、「黙々と砂を掃くミク」「サボり続けるココロ」「水のないプールで”泳ぎ続ける”チヅル」という、訳の分からない状況が現れた。彼女たちは思い思いに過ごしながら、あれやこれやと話をしていく。

そこに、水泳部を引退した元部長のユイ先輩がやってきた。実はチヅルは水泳部の部長で、しかも今日は男子のインターハイが行われている日なのだ。そんな日に応援にもいかず、チヅルはここで一体何をしているのだろうか?

というような話です。

高校演劇が元になっているのだから当然と言えば当然かもしれないが、舞台は基本的に「水のないプール」に固定されている。それ以外の場面も映し出されるが、全体の中では「おまけ」のようなもので、ほぼ「プールでの少女たちによる会話劇」というスタイルで進行する。そんなわけで、「そこでどんな会話がなされるのか」という点が最大の焦点になると言える。

そして、この会話が絶妙に面白いのだ。

その会話は、外形的には本当に特に意味のない、女子高生が時間を埋めるようにしている会話である(もちろん、僕に女子高生のリアルなど分かるわけはないが、『当時女子高生だった中田夢花』が脚本を書いているのだから、そう判断していいだろう。ちなみに、映画版は結果として、元の脚本からほぼ変わっていないそうだ)。そしてまず、そのことがとても良かった。

というのも、「夏休みに結果的に一緒になった、普段から仲が良いというわけでは決してない面々が、物語を駆動させていくような会話をする」というのは、とても不自然に感じられるからだ。だから、彼女たちの会話が「時間を埋めるような」ものであるという要素は、とても大事なポイントである。別に、特別喋りたいと思っているわけではないが、でも喋らないのも退屈だし、っていうかこんなクソみたいな状況喋らないとやってられないし(というのは、主にココロ目線の捉え方になるが)、みたいな感じから彼女たちの会話が存在していることが伝わってくるし、まずそのことが凄くいいなと感じた。この「会話の意味の無さ感」みたいなのは、同世代が脚本を書いているからと言えるだろう。

そして、何よりも素晴らしいのが、「そんな『時間を埋めるような会話』から、思いがけない展開がもたらされること」である。これが抜群に上手かった。しかも、その「思いがけない展開」によって、4人それぞれのキャラクターがくっきりしていくことになる。「JK」みたいな雑な括られ方をされがちな存在だろうが、当然、個々の違いははっきりあるわけで、それが、顕微鏡の倍率を上げていくみたいな感じで、会話の進展によってググッと解像度が上がっていく感じがとても良かった。

さて、その「思いがけない展開」については、まあ書いてもいいだろう。普段の僕なら、自分なりのネタバレ基準に照らして触れない部分だと思うが、本作の場合、この点に触れずにその良さを伝えるのは無理だと思うので、書いてしまう。

それは、「女として生きること」についてである(敢えて「女性」ではなく「女」という表記にしている)。

さて、「プール」と「女として生きること」という2つから連想できる人もいるだろうが、本作では「生理の際にプールに入ることを強要される」という話が描かれていく(しかし先に書いておくが、決してこれがメインの話というわけではない)。トークイベントで語られていた話で印象的だったことの1つがこの点だ。トークイベントには、脚本を担当した中田夢花と、演劇部の顧問の村端賢志(と山下敦弘監督)が出ていたのだが、その中でこの脚本が生まれたきっかけについての話になった。

元々中田は「プール」というお題を村端からもらっていたようだ。そしてそれについて司会者から聞かれた村端は、「当時滋賀県で、『プール授業で生理の場合は事前の申告が必要』みたいなニュースが大きく報じられていて、それを題材に出来ないかと考えていた」という話をしていた。この話、サラッと口にしていたが、僕はちょっと凄い話だなと感じた。男性教師から女子生徒に話す内容としてはなかなかセンシティブだからだ。今日のトークイベントでも感じたが、中田と村端はとても柔らかい雰囲気があったし、恐らく、顧問と生徒がとても良い関係の部活なんだろうなと感じた。

さてそんなわけで生理の話も描かれるわけだが、その話は物語の後半で出てくるものであり、映画が始まってしばらくの間は話題としては出てこない。そして最初の内はまた違った形で「女として生きること」が描かれていく。

しかしそれはさりげなく描かれており、最初の内はあまり分からない。ちょっとずつ違和感は積み上がっていくのだが、それが何なのかが分からないという感じで物語が進んでいくのだ。結果として一番分かりやすかったのはココロだろうか。彼女はメイクをばっちりして、「可愛い」ということに存在価値のほとんどを置いている。しかも、もちろんそれは「異性から可愛いと見られる」という側面もあるわけだが、恐らくそれ以上に「可愛い自分が好きだから」という理由の方が大きいようだ(彼女がある場面で口にした、「暑すぎて、顔一生ゴミなんやけどぉ」ってセリフは良かったなぁ。こういう「現役JKのリアルな言葉だよね」って感じのするセリフが随所にあって楽しい)。

では、他の人は一体どのような点で「女として生きること」について違和感を覚えているのだろうか? さすがにこの点まで書いてしまうと内容について書きすぎという感じがするので、それは止めておこう。しかし、少なくともミクとチヅルはそれぞれ、ココロとはまた全然違う形で「女として生きること」についての違和感や葛藤に支配されている(それはまた、体育教師の山本も同様と言えるだろう)。ちなみに、ユイ先輩の葛藤はまたちょっと違ったタイプのものであり、「女として生きること」という枠組みの中に入るものではない。全体の役割としては、「チヅルの葛藤を、観客に向けて見えやすくする」みたいな感じと言えるだろうか(4人の中では、全体の存在感は薄いという印象)。

さてそれでは、「女として生きること」についての葛藤について、主にココロの話に絞って書いていくことにしよう。

ココロのスタンスは、実に分かりやすい。「女は女らしく、頑張らんでいいんよ」「女は可愛ければ選んでもらえるし、守ってもらえる」というように、「『女である』という部分を、生きていく上での一要素として捉え、それを最大限有効活用することで要領よく世の中を渡っていく」というスタンスでいる。そしてそのような考えの背景には、「『女という生き物』は男にはどうしても敵わない」という感覚があるようだ。力では絶対に勝てないし、また「生理になる身体である」ということも彼女にそう自覚させる要因の1つである。

しかしココロは、最初からそんな風に考えていたわけではない。作中、「私だって女だからって関係ないって思ってたよ」と口にする場面があるのだ。昔からそのように考えていたわけではないのである。

そして恐らくだが、ココロは実際のところ本心からそのように思っているわけではない、という気がする。

そう感じるのは、ココロが教師の山本と口論する場面からだ。彼女は山本に「生理の時にプールに入れられた」と文句を言うのだが、さらにその後で、「大人はメイクをしていいのに、高校生は校則で禁止って意味が分からない」みたいな応酬を繰り広げられるのだ。この描写で僕は、「ココロが抱えている問題は、本質的には『ジェンダー』とは関係ないのだ」と理解した。

要するにココロは、「『誰かに決められたこと』に従うこと」に苛立ちを覚えているのだと思う。だから、「校則」にも、そして「生理がやってくる身体であること」にも、彼女は納得のいかない想いを抱いているというわけだ。

では、どうして「『女であること』を全面に押し出して生きていく」みたいなスタンスを表明しているのか。それは「校則」とは違って、「女である」という事実はどうしたってひっくり返せないからだ。

「校則」は変えようと思えば変えれるし、無視しようと思えば出来る。だからそれについては「服従しない」という抵抗が出来るわけだが、「女の身体である」という事実に対してはそうはいかない。だから彼女は、「それに抗うべきじゃない」と考えたのだと僕は思う。そしてそういうスタンスで行くのであれば、「『女であること』をフル活用して生きていく」べきである。そんな風にして、あのココロというキャラクターが出来上がっているのではないかと思う。

ココロはある場面で、「男女関係ないとか言ってるやつは、全員ブスだな」みたいなことを言う。この「ブス」は最初「気持ち」とか「心」の話かと思っていたのだが、実際に顔面の話をしているのだと理解して驚いた。その後で彼女は、「ブスはいいな。楽で。素の自分で闘えると本気で思ってるんだから」みたいなことを口にするのだ。モロに顔面の話である。しかもそれを、ミクとチヅルに向かっていうのである。ミクとチヅルにはっきりと「あなたたちはブスだ」と言っているというわけだ。

僕は初め「凄いこと言うな」と感じたのだが、このセリフの解釈は少しずつ変わっていった。最初はもちろん、「ミクとチヅルはブスである」という言葉通りの意味として捉えていたのだが、次第に、「ココロのある種の『後悔』が含まれた言葉なのではないか」と感じるようになった。

ココロは「女であること」に対して、「抗えないのだから、フル活用するしかない」と考えた。ただそこには大前提として「男と同等でいるために」という但し書きが付くはずだ。ココロの思考を勝手に推測すれば、「男には力では敵わないし、生理が来る身体であることも不利だ。だから、男と同等でいるためには、『女であること』をフルに活用するしかない」となるのではないかと思う。

しかし、結局のところこれは、「『男と同等でいるために』という考えに呑み込まれている」とも言えるだろう。

一方、ミクもチヅルもそれぞれ「女として生きること」の葛藤を抱いているし、それはある意味で「男と同等でいるために」という部分との闘いでもあるわけだが、ココロのスタンスと比較するのであれば、ミクもチヅルも「『男と同等でいるために』という考えに呑み込まれているわけではない」と表現できるように思う。

そして、そんな姿を見たココロが、自分がしてきた選択・決断に、一抹の後悔を覚えたのが、先程の「ブス」のセリフだったのではないかと感じたのだ。彼女はミクとチヅルに「女の負け組やん」とも言っているのだが、ある意味でそれは「自分が『負け組』であると認めないための意地」みたいな部分があったのではないだろうか。

それはまた、作中で少しだけ描かれる「野球部のマネージャー」との対比からも受け取れると言えるだろう。

実はココロには「負け」の経験があり、そのことは作中で言及される。そして「勝った側」である野球部のマネージャーは、描かれ方的に「素の自分で闘っている人」なのだ。つまりココロは、「『素の自分で闘っている人』に完敗を喫したことがある」のである。この事実は恐らく、ココロにとってかなり大きなダメージを負わせるものだっただろう。

しかしだからと言って、「『女であること』をフル活用する」という自身のスタンスを今更撤回するわけにもいかない。そのため、「素の自分で闘っている人」を「ブス」呼ばわりすることで、「自分は『負け組』じゃない」と言い聞かせているのではないか。

まあこれは、僕の勝手な受け取り方である。別に、そうである確証はないし、単に「自分の『可愛さ』を自慢気に思っているいけ好かない奴」かもしれない。

でも、本当にココロがそんな人物だとしたら、「ブス」と言われた後で、突飛な行動を取っているチヅルを遠目から見つめるミクとココロのような雰囲気はなかなか出せないだろう。

本作で良かった点として、このような部分も挙げられる。それは、男子の関係性ではなかなか存在し得ない、女子同士だからこそ成立し得る「可塑性」みたいなものだ。

男の場合よくある描かれ方としては、「ライバル同士が闘いの場では厳しいやり取りをしていたが、それが終わればまた友情に戻る」みたいな感じだろう。あるいは男の場合は、「謝る」というプロセスが入ることで関係性が修復される、みたいな描写もよくあるだろう。

しかし本作で描かれるのは、そのような感じではない。ココロは、単なる時間潰しでしかない雑談の中でミクとチヅルに「ブス」と言っているのだし、しかもその後、「さっきはあんなこと言っちゃってゴメンね」みたいなやり取りもしない。しかしそれでも、「ブスと言われた」みたいな過去が存在しなかったかのような雰囲気に戻るのだ。個人的には、このような感覚はちょっと、男の関係にはあまり存在しないように思う。僕の中で「凄く女子っぽいなぁ」と感じる部分だし、本作ではそのような雰囲気が結構あったので、それもまたリアルに感じられた。

さてそんなわけで、映画の内容についてはこれぐらいにしておこう。既に大分長々と書いたが、ここからはトークイベントで面白かった話に触れたいと思う。

まず、中田夢花がそのまま脚本家として採用されたことはなかなか驚きだろうし、本人もそのように語っていた。実際には、誰か(名前は忘れた)が脚本化したものが中田の元へと届き、それを修正するみたいな形で作業が進んだそうだ。しかもそれを、山下敦弘監督と一緒にやっていったという。

山下敦弘は、「映画にするにはどう変更したらいいか考えていたが、結果として元の脚本とほとんど変わらなかった」と話しており、中田夢花は「素人の私にこんなに寄り添ってくれて」と言っていて、いち大学生(現在は明治大学に通っているようだ)との共同作業というのはなかなか凄いものだなと感じた。

この点について山下敦弘は、「自主映画から出てきた人間だけど、実は脚本を書いたことがなくて、だから探り探りやっていた」みたいに話していた。ある意味ではお互いに「商業映画の脚本の素人」だったわけで、そのことも結果としては良かったのかもしれない。

個人的に驚いたのは、顧問の村端賢志だ。中田夢花は、「プールの場面ばかりだと映像的には厳しいだろうから、プール以外の場面も無理くり入れないと」と思って脚本の修正をしていたそうなのだが、それを一度村端賢志に見せたところ、「元の脚本の良さを殺している」とアドバイスしたそうだ(本人は「『殺している』なんて表現使ったっけ?」と言っていたが)。そしてそれを受けて改めて考え直し、結果的に原作とほとんど変わらない脚本に仕上がったそうだ。

また、コロナ禍で大会が中止になったため映像で提出するように言われた際も、顧問自ら「自主制作映画として撮る」と決め、また東京在住の監督にお願いしたものの、コロナ禍で「県外から徳島に人を呼んではいけない」と言われていたため、リモートで監督から構図などの指示を受け、それに従って村端賢志が撮影を行ったそうだ。司会者だったか山下敦弘だったか忘れたが、トークイベントの中で「村端さんが凄いですよね」と言っていたが、本当にその通りだと思う。

そんな村端賢志は、「昨日参観日だったのに、今日ここにいて、人生でまさかこんなことが起こるとは」と驚いているようだった。しかし、中田夢花も村端賢志も喋りがとても上手く、トークイベントでもスラスラ喋り、村端賢志は笑いまで取っていたので、能力高いなぁ、と思って見ていた。

ちなみに、トークイベントでは「この物語は誰が主人公というわけでもないよね」という話になったのだが、その中で村端賢志が「敢えて言うなら『水のないプール』が主人公」と言っていて、この捉え方もとても良かったなと思う。ホント、いち教員とは思えない人だった。

トークイベントの最後に中田夢花は、「『水深ゼロメートルから』の演劇がYouTubeに上がってるし、とにかく高校演劇にも興味を持ってほしい」と言っていたので、リンクを貼っておくことにしよう。

https://www.youtube.com/watch?v=idUetDtj188

大学時代、演劇部ではなかったが演劇もやるサークルにいて、そこで椅子とか馬車とか作っていた人間としては、演劇の小道具的な方に目が行ってしまうが。

いやはや面白かった。これは観て良かったなぁ。とても良い映画だったと思う。
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