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ウルトラマンブレーザーのccのレビュー・感想・評価

ウルトラマンブレーザー(2023年製作のドラマ)
3.7
結末について不満も多いものの、『ブレーザー』が素晴らしい作品だったことは言うまでもない。その魅力は何より、怪獣一体一体の丁寧な描き方と、また宮崎駿風に表現するなら、「虚構の世界のリアリズム」が素晴らしいのである。

特撮では基本的に、まず怪獣が出現したときには間髪入れずに人類側の防衛軍が出動し、銃火器やミサイル兵器を主とした攻撃でこれに対処、要はまずドンパチが行われると言っていい。そして、一部「変わり種」の怪獣が出たときに別の方法が用いられるわけだが、『ブレーザー』においては、出現怪獣の多くがその「変わり種」であり、戦闘シーンの画一化が避けられているのである(アースガロン出撃→限界が来るとブレーザーも出現、という点においてはそうではないが)。例えば第3話登場のタガヌラーであるが、世界各地の新エネルギータンクを襲い体内活動が活性化、下手にミサイル攻撃でも行えば大爆発の恐れがあるとして、火器に頼らない戦闘が繰り広げられる。その後も第4話には液状態へ変化する難敵レヴィ―ラを液体窒素で、第5話には伝承の山怪獣ドルゴを御神体で、と対処法が被らないのである。オムニバス形式というとまた少し違うのかもしれないが、とにかく、私たち視聴者は、「今週はどんな怪獣が?」「この怪獣をどうやって?」と毎週胸を躍らせることとなる。次回予告にここまで毎回鼻息荒く興奮したのは初めての経験だった。

アニメの世界はもちろん虚構であるとしつつも、いかに本当らしく見せるか、「そういう世界もある」と思ってもらえるウソをつけるかという宮崎駿の姿勢を私が勝手に「虚構の世界のリアリズム」と表現したが、『ブレーザー』はこの点でウルトラマンシリーズにおいても秀でていると言っていいと思う。一応断っておきたいのは、『マン』や『セブン』のように現実世界のアクチュアルな課題に取り組んでいるウルトラマンとの比較ではなく、物語の中で展開されている世界のリアリティが素晴らしいという話である。最もそれを感じたのは第22話「ソンポヒーロー」である。このエピソード自体はさほど面白いものではない(『マン』の「怪彗星ツイフォン」を思わせる演出はよかったが、これは私のような往年のオタクが喜ぶに過ぎない)のであるが、登場する「怪獣損害保険」なるサービスが興味深い。一口に「保険」と言っても対応するものは様々で、なるほど怪獣のいる世界であれば、そういうビジネスもありうるかと膝を打った。怪獣による直接的被害と、副次的に発生する地震などによる被害をプランによって補償するか否かを細分化しているところなども良い。特撮ものは例えば、ヒーローに対し懐疑的な意見を街頭インタビュー風に描いてみたりだとか、安易に想像し得る世論の反応などで作品世界のリアリティを演出しがちである。しかし、大抵の場合はどうも「心無い市民はこういうことを言うだろう」という願望込みの演出に見えることが多く、かえってリアリティの担保には繋がっていないように思う。宇宙人や怪人に対するヘイトデモなども、やはり大体は第三者の目線からになりがちである(そうでないと制作側はレイシストということになってしまう)一方で、保険などのビジネスは、「自分が怪獣のいる世界にいたら?」という一人称の目線にも立ち得るため、よりリアリティを感じやすいのではないだろうか。

一話ずつ魅力を説明していてはキリがないため、私が最も好きなエピソード、第7話&8話「虹が出た」について論じてみたい。このエピソードでは怪獣学の権威である横峯教授が、怪獣を忌み嫌い自然をも破壊し我がものとする人間に対し、怪獣ニジカガチの力で現代文明を破壊し、世界をやり直させようと企む話である。この設定自体は珍しいものではない。人間や現代社会への過激な怒りや怨嗟が怪獣を呼び寄せ、それを主人公サイドが何かしらの説得力を持って制する…というプロットは今までのウルトラマンにもよく見られる。が、「虹が出た」の真骨頂は横峯の説得のシーンにあると思う。横峯教授の教え子であったヒルマゲント以上に横峯の研究に打たれていたテルアキは、説得の際に横峯の著書「怪獣の目」を持ち出し、彼の思想に寄り添おうとする。


「怪獣の目、このタイトルは怪獣の純粋さに魅了されたあなたの気持ちを表したものです。しかしこの目はあなた自身の目でもあった。あなたは怪獣の目を通して、人類のあるべき姿を模索されていたんです。あなたの著書はどれも、人類に対する厳しい眼差しで満ちていました。しかしそこには厳しくも深い愛情があった。人という種族とあなたほど真摯に向き合った人を僕は他に知りません。確かに人類は改めるべきです。そこは賛同します。でも、他の生き物はどうなるんです。草木や虫や動物たち。そして怪獣すら洗い流そうというんですか。僕はこの世界でもっと生きたい!他の生き物だって!生きたいと思う気持ちこそ、全ての生物が持つ絶対に奪ってはいけない、一番大切なものなんじゃないんですか!」


怪獣の目を通し人類のあるべき姿を模索する。それは『ゴジラ(1954)』始まって依頼の、特撮に託された私たちの夢であった。ゴジラもウルトラマンも、怪獣やヒーローへの愛情以上に、現実世界で生きる我々への期待や愛情に満ちていると言っていい(少なくとも私はそう思っている)。ゴジラが世界を破壊し尽くし、人類を滅ぼして終わる結末はないし、人類を例え「正しい」論理で滅ぼそうとする怪獣宇宙人が登場しても、ウルトラマンが負ける結末はない。プロット上の問題と言ってしまってはそれまでだがしかし、怪獣を用いた人類への批判は人類の終焉を望むものではなく、常にその後の人類への期待が込められているのである。「怪獣の目」を離れ、おそらくは人類への期待を失った破壊者となってしまった横峯に対し、テルアキは自身の、自然の、怪獣の「生きたい」という願いでもって横峯のニヒリズムを解こうとするのである。優等生的回答ではあるが、既に打開不可能なのではないかと思わざるを得ない現実世界において、退廃した後の世界の可能性を描くSFや、現実での「死」を前提に異世界に想いを馳せるライトノベルなどのその他サブカルチャーの想像力に対する特撮からの応答として、今日的にはこれ以上のものはないのではないだろうか。翌週第9話にて、地球の文化である音楽に出会ったことで侵略に迷いが生じ、結果その計画を阻止されながら「音楽を純粋に楽しめる君たちを消さなくてよかった」と語るセミ人間の回が挟まれたのも、おそらくは「虹が出た」と地続きなのだろう。

「虹が出た」はこれだけでも十分に面白いのだが、一件が落着した後、テルアキは横峯に、「怪獣の目」へサインしてほしいとせがむ。また防衛基地では、隊員が「節水」の文字が書かれた張り紙を用済みとばかりにはがす(そもそもこのエピソードにおいて作品世界が日照り続きだったという背景はあるにせよ)のである。特撮に仕込まれた制作の、いやもっと表層的な、キャラクターの思想にだけ「深い」と感動し消費する姿勢。例え『ヘドラ』を見た後であっても、おそらくは現実には行動を起こさないであろう軽薄な特撮ファンへの皮肉として、こんなに上手い描写があっただろうか。怪獣の目に人類のあるべき姿を模索する「だけ」の、我々の姿である。「怪獣損害保険」のような作品世界のリアリティだけに留まらず、やはり特撮として現実世界とのつながりをも感じさせる素晴らしいバランスの上に『ブレーザー』は成り立っていたように思うわけである。

この奇妙なバランスの上に成り立っていた設定として、「ウルトラマンブレーザー」というのはあくまで仮称であるというものがある。ほとんどのウルトラマンシリーズにおいて、「ウルトラマン」という名は所与のものであるか、あるいは作中の人間が意図的に命名したものであった。しかし今作ブレーザーに「ウルトラマン」という名が作中で冠されたのは、作品世界の宇宙飛行士たちが目撃していた未確認大型宇宙人を「ウルトラマン」と呼んでいたことと、ブレーザーが大型宇宙人であるということがやや早計に結びつけられたことに起因する。徐々に明らかになっていくのだが、宇宙飛行士たちが見ていた「ウルトラマン」と、ブレーザーは明らかに別の生命体なのである。未知のものにまず名前をつけ、知っているものと結び付け、そこから知っていこうとする…この作品のテーマは「対話」らしいのだが、その前段階の「未知との遭遇」の段階として、ブレーザーを早計に「ウルトラマン」として見立ててしまうことから物語が始まるのは興味深い。時折変身者であるゲントの意思を上回り自主的に行動するブレーザーは、ときに称賛され、ときには恐怖の目を向けられる。「ウルトラマン」という名前の持つ信頼が機能しない虚構の世界で、いかにブレーザーが現実世界の「ウルトラマン」像を内面化していくか。同じく作品世界でコードネーム的に「ウルトラマン」と名付けられた『シン』のリピアーがザラブとの戦いで勝ち得たときのように、わかりやすくブレーザーが信頼を勝ち取るシーンはない。むしろ最終回付近になって初めて、遡及的に彼の行動が評価されていくようになるのである。彼はきっと人類の味方なのだ、と。では、作品世界で「ウルトラマン」と呼ばれていた宇宙人は一体誰なのか?おそらく、現実の私たちが「ウルトラマン」と呼ぶそれとも、また「ウルトラマンブレーザー」とも全く異なる存在なのだろう。想像力を巡らせたくなる、深みのある虚構世界であると思う。


ここで終わっていいような気がしないでもないが、不満についても述べておきたい。まず何より、最終回へ向けての急激な尻すぼみである。25話しかないのだからとこれを許容するファンも少なくないが、私にはつまりもう『メビウス』以前は永劫超えられないというようにも聞こえてしまう。そんなことはないはずだという期待も込めての評価であることを強調したい。

第13話「スカードノクターン」や第23話「ヴィジター99」などを通じて明かされた、ガラモンを除く作中の宇宙怪獣、バザンガ、ゲバルガ(、イルーゴ、ブルードゲバルガ)、ヴァラロンが実は同一軌道で地球に飛来していたという事実、それら宇宙怪獣を送り込んだとされるV99の存在、そしてこれらを撃退せんとして、あるいは接近を感じ取って動いていた地球怪獣の妙な行動の真相などに、物語の壮大な最後を大いに期待した方は多いだろう。私もその一人であったが、最後の2話でこれらの要素を回収しクライマックスを迎えるには、どうしても地球側のしょうもない陰謀が、名指しで言ってしまえば元防衛軍長官ドバシユウと、多くがその言いなりになっている防衛軍上層部の動きが明らかに邪魔だった。ドバシはかつてV99の宇宙船を撃墜したために、報復とも侵略ともとれる宇宙怪獣をV99に地球へ送り込ませるきっかけを作ってしまった言わば『ブレーザー』全編の元凶であり、その事実を隠蔽する悪役である(はっきり言おう、悪役である)。エミがその真相にたどり着くことを、ときには組織の圧で、あるいは実力行使で度々阻んできた。言うまでもなく私などは彼がラストにはとっちめられるのだろうと期待するわけだが、なかなかこの問題は解決されぬままに最終決戦へと物語は進んでしまう。結果、主人公ゲントたちの特殊部隊は特攻同然の作戦を強いられ、あろうことか最終決戦の最中において、オペレーター的役割であるはずのエミを考えなしに(としか言いようがない)監禁してしまう。そのため決戦に赴く主人公たちの雄姿を見てもアガらないし、最後の敵ヴァラロンを目の前に悪人の隠蔽工作を見ないといけなくなるのである。これでは得られるカタルシスも得られない。気になることが多すぎるのである。もっと早く、彼にはご退場願いたかった。

また、やや蛇足気味に終盤で付け足されたように見える「対話」という今作のテーマも気になる。かつて地球へやってきたV99の宇宙船を、おそらくは恐怖と地球の安全保障のために来訪目的の検討もせず撃墜してしまったこと、その後実は宇宙船は非武装のものだったことが判明し、次に彼等に会うことがあれば今度はきちんと対話をしてみたいと考えたエミの父親の願いからこのテーマは来ているのだろう。実際、決戦の最中地球に接近してきたV99の宇宙船団との対話を成功させるべく、各国防衛軍が「武器を下ろした」シーンなどは感動的ではある。かつて地球は撃ったが、過ちは繰り返してはならない。今回地球は非武装に徹し、対話をもってV99に対処する。この展開自体は面白いのであるが、エミら「今の世代」はドバシを非難はせず、「あなたは(あのときにおいては)やるべきことをやったんだと思う」と彼を容認してみせるのである。理屈はわかるが、リベラルすぎるというか優等生過ぎるというか。ドバシが隠蔽工作などに走らず、巨悪ヅラもせずにいたのならこのエミの姿勢は理解できる。しかし現にドバシの隠蔽した事実のせいで、宇宙怪獣による甚大な被害が出ている(わざわざ最終話だけ、怪獣によって人間が殺される瞬間を明確に描いている)上に、主人公の部隊もまた、ブレーザーがいなければたちまち全滅する作戦を強いられていた。そんな軍上層部でのみ行われている「対話」による大団円など、到底受け入れられるわけがない。罪に問われるでもなくドバシは退場するが、市民への謝罪は?説明は?「対話」はあったのだろうか?おそらくそんなものはなかったのだろう。何故襲来するかわからない宇宙怪獣の脅威に怯え、あるいは蹂躙された市民にはこの「対話」は開かれないままに物語は幕を閉じるのである。こんなに胸糞の悪いことがあるだろうか。かなり長い期間ドバシへのフラストレーションを貯めさせられた身としては、一言で言えばスッキリしない終わり方であった。(主題歌でも流せばお茶を濁せたかもしれないが、どういうわけか最終話には主題歌が全く流れない。これは本当にわからない。何故?)

全編を通しても、「対話」が重要な役割を果たしていたシーンがどれほどあっただろうか。お世辞にも十分にあったとは言えないし、あったとしても「対話」などがいちいちテーマに据えられずとも用意されうる程度のものでしかなかったように思う。何より不満なのは主人公ヒルマゲントが、ドバシを除いたメイン登場人物の中で一番対話を怠っているということである。ゲントは「妻子持ち、隊長」という異色の設定で鳴り物入りの主人公として物語をスタートするが、彼が「対話」するのはせいぜい身体を共にしているブレーザーくらいのものである。彼は自身の家族には前線部隊ではなく裏方の所属であるという嘘をつき、最後までそれを貫き通す。決戦前の出撃の場面、つかの間の自由時間に帰宅した際にも、寝静まった妻と子供に黙って家を出ようとする。仮に自身が帰らなかったときの説明をどうつけるつもりだったのだろうか。「心配させたくない」という真心から来るものなのはわからなくもないが、少なくとも「対話」というテーマには掠りもしていない。ヒーローものの主人公は、自身が大いなる力を持っているということを周囲に打ち明けるか否かという選択を迫られるという点で、向き合うことが必要になる、あるいは諦めざるを得なくなる「対話」がただでさえ既に一つ多く課せられていると言っていい。その意味でゲントは、自身がブレーザーであるという点でも、注目すべしとされた設定の点でも、「対話」を諦めている。第18話「そびえ立つ恐怖」などは、家に帰る機会の少ないゲントに妻と子供が不満を漏らすという、「対話」を描く絶好の機会であったように思う。ここでもゲントは前線所属の事実を隠し、テレビカメラに偶然映り込んだ現場での自分の姿を見た妻と子が事情を「察する」ことでゲントを受け入れるに留まるのである。決戦に赴くゲントの背中を見送る妻の涙…などといった、設定をなぞった描写に、「妻子持ち」という情報に視聴者が勝手に感動しているだけで、ゲントは何ら感動的なことはしていないのである。

「隊長」という設定も、上手く機能しなかったように思う。「中間管理職」のポジションを描くことで、今まで見えなかった特撮ものの一面が見えるのではないか?と期待したものだが、そうはならなかった。こちらとしてはある程度、与えられた設定やそれに伴い発生する物語中の試練に打ち勝つことを期待しているのである。『セブン』最終回に私などが感動するのは、セブン上司にもう戦うなと言われても、地球人として生きることを諦め、自分がウルトラセブンであるということを最愛の人へ打ち明けてでも地球を守ろうとするモロボシダンの姿に感動するわけである。ゲントは、作中どこまでも組織の人間としての論理で動く。多少他の部隊や上司を言いくるめることはあれど、逸脱や抵抗には至らない。与えられた「妻子持ち、隊長」という設定に上手く適応しながら立ち回るだけであり、ゲント「個人」の活躍は全然見られないと言っても言い過ぎではないだろう。何も『帰ってきた』の加藤隊長や伊吹隊長、『ティガ』のイルマ隊長にまで話を戻す必要はない。『ブレーザー』の中にも、エミの動向を見守り、ゲントら特殊部隊存続のために陰ながら奔走していた(そのために解任されるも最後までV99の真相解明に努めた)ハルノ参謀長や、「船団を攻撃せよ」という司令部の命令に真っ向から背いたテルアキ副隊長など、抗い、「自分」を見せる「中間管理職」はいたのである。そのため、かえってゲントの役不足が目立つ。ブレーザーに変身するために人前から姿を消す理由などが、隊長らしいものに変わっているくらいのもので、アツくはない。彼と共に戦い続けようとするブレーザーが健気でかっこいいだけである。

余談だが、V99はバルタン星人なのではないか?という説があるらしい。説が説として語られている分には結構なのだが、老婆心ながらこの説に異を唱えたい。バルタン星人の初出は『マン』第2話「侵略者を撃て」であるが、ご存知の通りこの回地球防衛軍はまずバルタン星人との「対話」を試みている。地球への移住を望むバルタン星人に対し、ハヤタはバルタンが地球の法律や風俗に馴染み生活するならそれも不可能な話ではないと語る。この交渉が決裂しバルタンが実力行使に出たとき、初めて地球とウルトラマンはバルタンを「撃った」のである。まず「撃った」今作とは、あべこべである。対比として見ればいいかもしれない(というかバルタン説発端のシーンがあまりに一瞬のため、その程度の小ネタに過ぎないと思う)が、バルタン星人が『ブレーザー』に出ているとするのは無理があろうと思う。ちなみに言えばバルタンへの即時攻撃を提唱する防衛軍のトップに待ったをかけまず「対話」を打診したのは、ここでもムラマツキャップ(隊長)である。ゲントでは役不足だったと思う所以である。

最後に、「対話」がテーマという割には、ファンも制作側も、ウルトラマンブレーザー本人への向き合い方に問題があるのではないかという点について述べておきたい。ブレーザーは今までの多くのウルトラマン(特に「光の国」出身者)とは違い、日本語での意思疎通は劇中でできていない。加えて、戦いの前に見せる「踊り」や、自身の咆哮による怪獣への威嚇など、現代日本や、何故か日本に順応している(ご愛嬌)他のウルトラマンとの文化圏の違いを思わせる特徴がある。この特徴を念頭にであろう、ファンは彼を、「蛮族」と呼ぶのである。ネットの文脈であるが故に差別的な意味はさほど込められていないのだろう、むしろブレーザーの「蛮族」的行いはファンに愛され、ときには赤ん坊を愛でるかのように彼は消費されているのである。しかし、言語の壁、文化の壁を承知しながら、こちらが「文明」側であるスタンスは崩さずにブレーザーを愛玩する姿勢は、かつての西洋が「未開」の地や、オリエンタリズムでもって日本に向けた眼差しと同様の類であることをわかっているのだろうか。作中での共演はないものの、ヒーローショーなどでブレーザーが共演した際の他のウルトラマンの接し方も、「蛮族」的な消費の仕方を強調するようなものが多く見られるのである。極めつけは、最終話でゲントに対し、ブレーザーが初めて地球言語で「俺も行く」と話した時に、多くのファンがこれをカタカナで表記し、作中での言語の接近すらもそのような文脈に押し込めてしまったことである。それだけなら視聴態度の問題なのでまだよかった(よくない)が、あろうことか公式側であるバンダイの商品紹介(ブレーザーの変身アイテムを模した玩具で、作中のセリフが鳴るのを楽しむことができる)でファン同様に「オレモ行ク」などと表記していたことなどは全く最低である。異なる文化圏の者が出会ったとき、ただ恐怖するのではなく、争うのではなく、知ろうとすること、「対話」することの大事さをこの作品で伝えたかったのではなかったのか?『モスラ』に見たような南洋幻想などはるか昔に通り過ぎたはずの特撮でこんなに短絡的な「対話」があっていいのだろうか。作品そのものの評価ではないが、ひどくがっかりしてしまった。
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