KnightsofOdessa

Messidor(原題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Messidor(原題)(1979年製作の映画)
4.5
[スイスに降り立った二人のアナーキー女神] 90点

大傑作。1979年ベルリン映画祭コンペ部門選出作品。アラン・タネール長編六作目。試験前の休暇で都市部の家を出た学生ジャンヌとローザンヌにいる父親を尋ねるマリーは、偶然同じ道でヒッチハイクしていたことで知り合う。二人の初登場シーンから強烈だ。交通量の多い道路の騒音に悩むジャンヌは、見晴らしの良いベランダに背を向けながら旅に出る決意を語る。ローザンヌ行きの切符を無くしたマリーはそのままホームの階段を降りていく。様々な移動手段が登場する本作品の中で、後に飛行機に向けて発砲していることからも分かる通り、電車や飛行機といった始点と終点の決まった移動手段だけは明白に拒絶されている。主に登場するのは車と足。特に車での移動は本作品のテーマの一つでもある。オープニングクレジットで流れるのは、都市部から山間部へ徐々に車道が減っていき雪山を超えるという空撮であるが、一方で山に入ろうとする二人は入る度に道路へと連れ戻され、そこには必然的に車がある。同時に、彼女たちは常に金欠に頭を悩ませていることから、ある意味で資本主義から逃れようとして毎度捕まり続けているようでもあり、山々に囲まれてすり鉢状になったスイスという国から逃れられないという蟻地獄的なメタファーにも見えた。

ある時、二人は偶然にも拳銃を手に入れる。そこまでに、二人は家父長爺やレイプ犯などと同乗して危険な目にあってきた(それに関して"スイスは安全だから国から出るな"と説教する爺も後に登場する)ため、最終手段として使用する場面も増えていく。それによって二人は指名手配されることになるが、二人は決して"逃亡"はしない。服装すら変えようとしない。"一番辛いのは当てもなく旅を続けることだ"と言いながら、あくまでも目的地を決めない旅というゲームを続ける。そこが、本作品とよく比較される『冬の旅』『テルマ&ルイーズ』との違いか。私には『ひなぎく』にしか見えなかったが。

題名"メシドール"は革命暦10ヶ月目の収穫月を意味しており、歴史学専攻のジャンヌが偽名として用いたものである。その際、ジャンヌは"貴方=マリーが歴史の女神で私が喜劇の女神だ"という発言をする。よくよく考えてみると、二人の出自は明らかではなく、それぞれのリミット(マリーにおけるローザンヌ=空間的制限、ジャンヌにおける試験=時間的制限)も発言の中に留められていて、映画開始5分で二人は放浪の旅を運命付けられている。ある意味で、彼女たちは人間界に放たれた神々なのかもしれない。
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