Oto

ちひろさんのOtoのレビュー・感想・評価

ちひろさん(2023年製作の映画)
4.0
目の前の人から何を受け取って与え、誰も見ていない時間をどう丁寧に過ごすか。孤独で優しい人物の周りの記録のような群像劇。

●「何も聞かないんですか?」の継承

キーとなる問い「何も聞かないんですか?」に対する"父"の「俺はいま目の前のあんたと話してるんだから」は、オカジへの「そんなの当てにしたことないもん」へと受け継がれている。経歴とか肩書きとか年齢とか、わかりやすいタグだけで判断してしまう僕たちへのアンチテーゼ。

多恵ちゃんの「今よりすてきな人にはなってなってないんじゃない?今のあなたがとっても好きよ」はそんなちひろさんへの褒め言葉だと感じたけど、一方で弁当屋の店頭でちひろさんを受け入れた多恵ちゃんから受け継いだものでもある。それがきっとオカジやまことにも継承されるはずで、真摯な優しさって少しずつだけど伝播していくんだという希望を感じた。

元風俗嬢という設定や制作者の性別みたいなレッテルを貼って、「明確なゴールがない人として消費してるミソジニー映画だ」みたいな批判を読んでしまったけど、今の社会ではそうやって単純で一面的な情報に落とし込んで、攻撃的な文章で決めつけた方が注目を浴びれる時代になってしまったんだなってことをメタに思い知らされてる。

ちひろさんのように自分からケアを買って出る人間なんて妄想でしょ、という意見も多いけど、そもそも積極的に誰で助けたい人ではないし、損をするほどのお人好し(優しさを搾取されやすい人)ってすごく身近にもいるし、もちろん自分の人生において自立して目的を持って生きようというのは素晴らしいことだと思うけど、そう生きられない他人の人生をわざわざ否定したり攻撃しなくてもいいのになと思ってしまう。勝手に居ないことにしないでほしい。

少なくとも自分は、ホームレス・風俗嬢・ガキのようなレッテルで周りを判断するのではなく、目の前の人を気遣って大切にして生きていたいと思えた。『Us』や『万引き家族』を観て感じたことにも近いけれど、自分の立場とは違うから許せない、っていう想像力の欠けた状態でなにか本当の価値を生み出せる気がしない。

自分はちひろさんほどオープンではないし、むしろ彼女は今泉さんに重なった。Twitterで募集して飲みに行ったりDMで毎日のようにお悩み相談に答えてたり。そういう異常なフランクさ(悪く言えば人への危機意識の薄さ)が性別による特権なのは否めないし、自分もそんな風には生きられないけれど、少なくとも拒絶・攻撃せずに尊重して共存することはできるんじゃないかって思えた。今まで仲良くなってきた人たちも、人物表や履歴書を判断して近づいたわけじゃないから。

●孤独を手放したくない人

ちひろさんの孤独を手放したくないという気持ちもすごくわかる。「もういいんじゃない?どこにも行かなくても。あなたならどこにいたって孤独を手放さずにいられるわ」で結果は変わらなかったけど、彼女を誇り高き「ただのお弁当屋さん」に変えたんだと思う。
月見団子のシーンでちひろさんと同じ感情になっていたのがべっちんだと思っていて、彼女も「ちょっと怖いよ、仲いい人とかできるの。また一人になったときに寂しくなる」って口にしていた。

ちょうど次作として発表されている『アンダーカレント』でもこれに近い感情が描かれていたけど、自分も定期的に関係性をリセットしてきたし、理解されすぎたり依存しすぎている状態の窮屈さに悩むことは多い。未来や限界が決まってしまう怖さというか。

だから「みんなで食べてもおいしくないものもあるし、1人で食べてもおいしいもんはおいしいよ」というセリフもあったけど、孤独であることやパートナーを作らないことがダメとされる世界において、家族とか男女の仲だけじゃない幸せや好きの形を肯定しているのは自分は力をもらえた。

●大事なことってたいていめんどくさい

大学生時代、少し離れたところに何軒かこういう街のお弁当屋さんがあって、よく授業の合間に買いに行ってた。それこそ友達が少なくてよく次の教室で一人で食べていたけど、一人でも美味しかった思い出しかないしそうやって食べることのエネルギーに支えられて今の自分がいるんだよなって、ちょっと世界の見え方が変わった。あれってわざわざ学食じゃなくて歩いて買いに行ってたんだな…。

社会に出ると顔の見えない人のために働く機会が増えるけど、自分の会社でもやめてお弁当屋さんを始めたことですごく輝いてる先輩がいて、効率化だけでは得られない大切なものがあそこにはあったのかもしれない。

「そりゃ楽になるのは嬉しいけど栗を剥く楽しみが減るのは寂しいわ」ってセリフは本当に素晴らしいなと思ったけど、家事・食事・単純作業...、誰も見ていない・映画になったら省略されてしまうような時間の積み重ねがその人の人生や人格を作り上げているし、そこを大事にしない人が何かを作り出して誰かを喜ばせるって難しいと思う。宮崎駿も「世の中の大事なことってたいていめんどくさいんだよ」と言っていた。

繰り返し描かれる「埋葬」という行為にもそれが現れている。あれ単体で見るとかなりフィクショナルに感じるし、溺れてるアリを救うなんて小学生の頃からやっていないけれど、ジャイナ教のように微生物にすら配慮をしている人々は実在しているし、他人や野生生物となるとなかなか意識が向かないけど、ペットや関係者だったら当たり前にやるっていうのは、よく考えると不思議な境界線だなって思う。その思想が出ているのが「他人も家族もないんだよ」だけど、大人ってだんだん排他的になるから、若干極端な人間にたまに触れるのはバランス取るのに良い。あの場面で「お願い」って言える強さは、『すばらしき世界』の三上の正義感に近いものがあった。

●物語ではなく記録

原作は数年前に監督が番組で紹介してた時に一度読んで、あとがきに「物語ではなく記録なんだ。彼女の後ろをくっついて回ったドキュメンタリーで、カメラを回すまで何をするのかはわからない」ってあったのがすごく印象に残っている。監督自身もオリジナル原作は結末や構成を決めるのではなく、人物を決めて会って何を話すのかわからないまま書いていくということを言っていたけど、それゆえのどこに行くのかわからない実在感が好き。

自分は準備や確認をしすぎてしまうところがあるけど、相手に初めて触れたことで生まれたものを受け取る姿勢というか、決めつけたり思い込んだりしないで別解を見つけに行く姿勢の大事さを知った。

映像化の難しい作品だったと思うけど、原作の時間の流れ方そのままで無理にドラマチックにしていなくて、パクチャヌクを観にいって疲れ切った日の夜に観ても、心地よく軽く観られた。

強いて言えば、世界観を飲み込むまでの前半は少しだけ、突飛さや冗長さを感じて、「そもそも自分の周りにはこんなに人が集まってこないし大事な話はされないな...ちひろさんと有村架純という人だからこその再現できない魅力だな...」と感じたけれど、だからこそ、この場で消費して終わらずに日常に寄り添ってくれるというところはあって、くるりの曲も含めて暮らしのBGMとかお守りみたいになっていくのかもしれない。配信作品のよさ。
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