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マリウポリの20日間/実録 マリウポリの20日間のkのレビュー・感想・評価

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「ロシア軍に捕まれば終わりだとわかっていた」
私が冒頭の彼の言葉の真意を悟ることになるのは、映画の終盤に差し掛かる頃だった。

血が通わず真っ白になった子どもの脚。サッカーをしている途中に爆撃されて両足が吹っ飛んだ少年。何もできずに虚ろな顔で座り込む医師や看護師。物資が足りず、商店から略奪を始める市民。どうして盗むの、みんな獣みたいだと泣き叫ぶ商店の女性。爆撃の中、床に横たわりながら貴方が大切なのだ、と遺言のように囁く家族。

街が街でなくなっていく。人が人でなくなっていく。

ロシア側は民間人は標的にしないと声明を出していたが、そんなものは2、3日でないものになっていた。たった20日でこれなのに、こんなことがもう2年以上も続いているということに呆然とする。どうして。
見るに耐えない凄惨な映像の連続で、映画館のあちこちから啜り泣く声が聞こえた。

病院の映像を見ながらガザでのイスラエル軍の声明や映像を思い出した。ハマスの基地があるのだとして病院を攻撃した彼らは、ほれみろとばかりに数丁の銃やら爆弾やらをプレスに撮影させていたが、この映画を見たらわかった気がした。
確かに、この病院にも兵士がいた。だけどそれは怪我を負って自力で動けない人や、次々に運ばれてくる怪我人や、身寄りも家も、そして逃げ場も失った、そういう何の力も持たない民間人たちを守るために、ただそれだけのためにいるたった数人の兵士たちだったんじゃないのか。少なくともここは、基地なんかじゃないし拠点なんかでもなかった。本当に全然、そんなものではなかった。

そして終盤、いよいよ包囲網が強まり、命の危険が常に記者を付き纏う中、取材の中で出会いずっと彼をサポートしていた警官のВладимир が「もう逃げろ」と記者を説得する。「ロシアに捕まったら、この映像がフェイクだと言わされるぞ」。

衝撃だった。

そんな技術のなかった昔と違い、今や世界中でフェイク画像や動画が生成され拡散される中で(プーチンもゼレンスキーも、もはやその対象である)、映像や写真というもの、その定義や存在そのものが揺らいでいるのだと愕然とした。フェイクだと言われれば、こんなにも生々しい現実がフェイクとして扱われ捨て置かれる、そういう局面にメディアは立たされている。
これが現実だと主張し、それを信じてもらうためには、メディアは絶対に間違いを犯してはならない。誤った情報を流布してはならない。一度でも間違えば、信用されなくなる。これが真実だといくら訴えても、前例が引き合いに出される。 
クリーンでいなくてはいけない。胸を張って立っていられるようでなくては。

終盤の状況を見ると、この映像が世に出なかった可能性も十分に考えられた。本当に奇跡的に、私たちはこの映画を見ることが叶っているんだよ。お願い、どうか多くの人に見てもらえますように。

人はこんな痛みを味わうために生まれてきたのではないし、街はこんなふうにミサイルで破壊されるために造られてきたのではない。

侵攻開始当時、いわゆる「東側」の国にいた私は、ルームメイトのウズベク人やタジク人、ロシア人に今回の侵攻についてどう思う、と尋ねたとき、「この戦争は正解だった」「仕方のないことだ」と言われて衝撃を受けた。端的に説明を受けて、ロシア側の考えも、なんとなく理解できた。だけどやっぱり、どんな理由があろうとも、どんなに友人たちと対立しようとも、この侵攻を肯定することは、私にはできない。この戦争が正解だったなんて、とても私には言えない。
言えないよ。
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