あおは

ミッシングのあおはのネタバレレビュー・内容・結末

ミッシング(2024年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

娘を誘拐された夫婦とその周りの人たちのお話。
誘拐事件があって、犯人が誰で、どこで、どのように誘拐したのか。というお話ではなく、誘拐事件、広く言えば悲劇を、当事者や放送局、世間はどのように扱っていくのかというところを軸にした作品。

自分は男である上にまだ子どももいないけれど、誘拐された女の子の母親である沙織里にまず初めに感情移入した。彼女の目線でいると、娘が見つからないこの世界のすべてにイライラして絶望して、当てどころがないからさらに分からなくなってイライラして、特に沙織里ほどの必死さを示さない周りの人間には怒りを強く感じた。
しかし、それぞれ抱えているものがあり、そういったものが見えてくるにつれて、沙織里の夫である豊や、放送局の記者である砂田さん、沙織里の弟である圭吾など、あらゆる視点に感情が入り込んでいき、その複雑さに圧倒されるような思いになった。

犯罪被害者の遺族などの話で、遺された人たちはそれぞれ事件に対する感じ方が違うから、その感じ方の差でお互いのことが理解できなくなっていき関係が破滅するということを聞いたことがあった。
その孤独感をまず沙織里に感じた。
娘を見つけることに対して沙織里ほどに必死になっていないように見える豊。蒲郡が遠いから行くのが面倒くさいということを匂わせたり、ことあるごとに沙織里のことを責めたり、その温度差がとにかく苦しかった。
しかし、豊も沙織里と同じくらい苦しんでいるけれど、彼は彼なりに理性をもって冷静に対応しようとしていただけで、豊にとってはひどく取り乱し必死な沙織里の状態もキツかっただろうなと思った。

誘拐事件は放送局にしては仕事の1つにすぎず、世間にしては叩いたり想像して楽しんだりするネタの1つにすぎない。みんなあくまで他人事。
見えないところから批判したり、変に好奇心をもって追求したり、あらゆるところから無責任さは迫ってくる。
沙織里の感情が真っ直ぐにとおらないような邪魔の入り方などは観ていてかなりしんどかった。
特にホテルのレストランでおしぼりを口にあてて叫ぶところや、放送局の車に泣きながらすがるところ、娘が見つかったというイタズラ電話を食らうところ。
人間の限界や極限を感じて、鑑賞中なのに自分も発狂しそうになるほど苦しくて、胸が張り裂けそうだった。
無責任な人たちも同じ目に遭えばいいのにと強く思った。

娘が誘拐されるときにライブに行っていたことなどを責めてくる他人事な世間や、周囲との温度差に苦しみながらも、何とか世間に悲劇を受け入れてもらおうと必死になっていく沙織里。
理性でそれはおかしいと指摘する豊の気持ちもすごくよく分かるし、でも何かにすがっていないとおかしくなってしまう沙織里の状態もすごくよく分かり、胸の中が複雑な重さでいっぱいになった。

報道のあり方もすごく考えさせられ難しかった。
事実を報道すると言っても、当事者の名誉や気持ちが大切だからすべてをありのままに報道することはできない。かと言って、当事者の心に寄り添い味方として、事実を隠したり嘘を作ったりして報道するのは正しいのか。
沙織里も放送局にとっては自分たちの誘拐事件が視聴率をとるニュースの1つでしかないことは薄々理解し始めるし、世間にとっても想像して勝手に批判して楽しむネタの1つでしかないことも分かっている。
でも娘を見つけるためにはその報道と世間にすがるしかなくて、悲劇の母を演じるようにもなっていく。
砂田さんに関しては沙織里たち夫婦に寄り添いたいと本気で思っているのに、仕事である以上、上の指示に従わなければならなくて誤解を生むようなことばかりしなければならない板挟み状態も、観ていて苦しかった。

理性で抑えてきた豊も本当は苦しくて苦しくて堪らなくて、その思いが一気に溢れ出す最後のシーンは涙が止まらなかった。

とにかく全体的に本当に苦しくて、今年一観るのが辛かった。
でも、印刷屋のおじさんやみかん畑の女の人、誘拐されたさくらちゃんの親など、優しさや救いもあって、その光にすがりながら何とか観ることができた。

誘拐されたさくらちゃんが見つかったときに、それこそ他人事なのに良かったと心から言える沙織里は豊の言葉どおり本当にすごい。自分だったら何で自分たちだけ見つからないんだと絶望したり、他人の幸せに猛烈に腹が立ったり、ネガティブなことに支配されてしまいそうな気もする。

そして、石原さとみの演技が圧巻でした。
あおは

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