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悪は存在しないの砂場のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.7
冒頭のタイトルから「気狂いピエロ」っぽくて映画臭がムンムンする。湧き水を汲む二人の男の場面からもうすごい傑作。

巧は娘の花を学童に迎えに行くのが遅れ花は歩いて帰った。車の後部座席から後ろを映すカメラ、風景が後退してゆく。同乗者はいないので、これは誰視点なのだろうか、、、と不思議に思いつつも映画内にどんどん没入する。

ここ長野県水挽町にグランピング場の建設計画があり、地域住民向けの説明会が行われる。進行役の高橋、アシスタントの黛は住民からの質問や反対意見にボコボコに。この場面は濱口監督の傑作「ハッピー・アワー」を感じた、なんてことない場面なのだがきっちりと長い。どの場面にどのくらいの時間を使うのかは監督の生理というかリズムだが、濱口監督のこのリズム感は「ハッピー・アワー」の居酒屋の飲み会の場面を思わせた。濱口監督、長い時は長く撮る。しかし全然退屈しないのだった。高橋が内心イラっとしてマイクをオンのままゴトりとテーブルに置く音の緊張感、アシスタント然としていた黛が突然積極的に住民に応答するなど映画的アクションに溢れている。

一見すると地元民vs開発側という構図が鮮明であるが、ここで巧は重要なことを言う。この土地は戦後開発されたところなので俺たちもみんなよそ者だった。そう考えると大自然の前には地元民はおろか人間は存在しないのであった。自然を壊し人間は生きてきた、それは巧たちも同じなのである。ただ巧はバランスが重要だという。

視点が高橋と黛に移ると二人の自分語りが始まる。この場面もどうってことない二人の喋りのようでいて映画的なアクションに溢れている。地元への理解に努める高橋と黛は巧との距離が縮まったようにも思えるが、巧がグランピングの予定地は鹿の通り道であり、野生の鹿は人を襲わないが手負の鹿は襲うこともあるという。そういえば詩人のエミリー・ディッキンソンは手負の鹿は高く飛ぶとうたったのだった

ラストシーンは静かな衝撃がある、高橋の行動はこの地において人間として善良なのだが、人間として善良なことが自然界のバランスにとって善良というわけでもないだろう。巧の激情は自然界のバランスをなんとか維持しようとしているようにも思える。そして中心は花なのだ、人間が自然と共生するにあたりその巨大なサイクルに組み込まれる必要がある。

なんだかんだ言って人類の歴史も1万年以上、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」を読むと自然環境と人類の発明の相互の関係が人類史を動かしてきたことがわかる。「悪は存在しない」でいえば、鹿は銃で撃たれ、病原菌=コロナ助成金狙いの開発があり、鉄製の車やナタで地元民は暮らしている。巧は自然と人類史の巨大なサイクルに対してはなんとかバランスを取ろうとして、そのためには多少の犠牲も仕方ないと思っているようでもあり、ギリギリのところで超ちっぽけな人間精神の自律を保ちたいところもあると思う。エンタメ寄りだと「ミッド・サマー」なんかも自然と人類史の巨大なサイクルは感じる

とんでもない傑作だと思ったが、不満点は(興行的にどうかは置いておいて)上映時間が短すぎることだ。「ハッピーアワー」級に5時間くらいあってもよかったのではないか、ただ人類史というか宇宙史からすると5時間も2時間も誤差の範囲なのでどっちでもいいかもしれないが
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