マインド亀

悪は存在しないのマインド亀のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
5.0
「バランスが大事なんだ」

●「バランスが大事なんだ」と巧は言う。
人間は生きてるだけで環境破壊をしている。この山に住む住人たちですら環境破壊をしながら生きている。だけどバランスが大事。やりすぎてはだめ。やりすぎるとすべてを破壊することになる───

●「バランス」
その言葉を聞いてから、「それはこの映画そのもののことを語っているのでは?」と思い、最後まで観て確信にかわりました。

この映画はすべてが歪…だけど見事にバランスがとれている…


全編を通して観ると、とても不思議でヘンな映画だとは思うんです。何か世界観そのものの地層が一つズレてしまったような印象の映画なんですよね。で、その一枚一枚の地層を一つ一つ見ていくととても変わった成分でできているのがわかるんです。
なのに、とても豊かな土壌をもつ自然として調和しているんですよね。

●まず、オープニングから一体この映画はなんなんだ、というくらい変なんです。音楽とともに下から見上げた木立が4分も静かに流れていきます。これは体感ではかなり長い。前衛的なアート映像を観に来たのかと錯覚するようです。
そこから主人公の巧の作業シーンへ。丸太をチェーンソーで切り、薪を割り、川でタンクに水を汲んで車に何往復も運ぶ。異常に丁寧に長く映し出されます。
また、巧が森の中に娘の花を探しに行くシーン。ずっと横スクロールのトラックショットでカメラが巧の歩みに合わせていくのですが、姿が消えた好きに一人から二人になって現れるシーン。これも説明的なことがない分、一瞬錯覚を見たのかとギョッとしてしまうシーンですが、非常に面白いシーンでした。

●カメラの視点は今回なかなか普通の映画では見られないような視点で、とにかく一番変わっているのはドライブレコーダー視点。後部を向いている方向のカメラの視点がこれまた無意味に長かったりするんですが、これも何度かよくわからないけれど無駄に不穏な緊張感を煽るんですよね。
また、陸わさびや鹿の死体からの視点も妙に独特。多分、視点という固定観念を排して自由なアングルを探求しているだけだと思うのですが、何か自然そのものや魂の宿った無機物から常に見られているような、人間とは別の「何か」が主体となった世界観のように見えるんですね。

●また、この映画の物語としてどこに転んでいくのかわからない、まるで「ジャンル」そのものをシフトしていくようなシーンのつながりが奇妙に感じました。最初はまるで環境映像なのに、主人公やその娘、街の人の自然と調和した生活を淡々と見せていく生活密着ドキュメンタリーに移行。
そして、そのまま映画がすすんでいくかと思えば突然都会から来た開発者との話し合いをそのまま切り取った社会派ドキュメンタリーの様相に。そこからまた物語の主体が変わり、他愛もない会話劇になったり。そしてそのシフトチェンジとともに、白黒ついた「悪」なんてものはなく、グレーな世界しかないんじゃないかと、段々と物語の曖昧さが広がっていくんです。
そしてそこから全てを覆すかのようなあの衝撃。

それらのパート全てが、なんだかすごく不思議に面白くて、ヒリヒリしながらもどこかユーモラスなんですよね。あ、芸能事務所の社長とアドバイザーはかなり「悪」寄りだとは思いますが。

●また、濱口監督の演技メソッドが一層冴え渡っておりました。それは、他の俳優さんの演技と、俳優経験のない巧役の大美賀均さんの演技の違いというか落差が際立っているんですよね。大美賀均さんの演技は棒読みに近く、人としての魂のこもってないような、何を考えているのか良くわからない人物。むしろ娘の花役の西川玲さんの方が子役らしい「演技」をしていると言えるでしょう。一歩間違えれば、「主人公の人、大根だったよねー」と言われかねないような演技ですが、この中ではこれが最適解の、一番生々しさのある人間のように見えるんです。それはおそらく監督が見出した大美賀均その人が元々持ってる怖さとか心の奥の見え無さとか、それがそのままむき出しになってるからではないかと思うんです。
また、この説明会での町の人々の演技。これこそ濱口メソッドが活かされたパートで、完全に頭に刷り込まれたセリフを、町の人々の頭の中で自分の感じたことや思ったこととしてアウトプットされてるんですよね。ここが先程のドキュメンタリー感といったところでして、これはもう、演技なんてもんじゃなく、リアリティショーのようにしか見えないんですよね。

●この映画は上記のような、どこか歪で、無駄にやりすぎな部分が、絶妙なバランスを保ってるがために異常にスリリングで面白い作品として成立してるんですけども、この作品そのものがまるで「自然」なんだと言ってるように感じました。「やりすぎてはだめ。やりすぎては映画そのものが台無しになってしまう───」
つまり、やりすぎな部分もうま〜く、一つの薄い空気の膜のような物でこの作品全体を包みこんでいるような感じなんですね。
その薄い膜というのは、例えば音の演出。序盤から音の演出がずっと不穏なんです。時折聞こえる銃声、頻繁に流れる川の音、巧が切り続けるチェーンソーの音、そして音のならないピアノ、なんだかずっと音の膜によって包まれて、一つの統制の取れた、不穏な作品が成立しているのかもしれません。
そして繰り返し現れる「半矢の鹿」という言葉、そしてその死骸。匠の度を越した忘れっぽさ、一人で山を歩き続ける娘の花。ずっと無意識下にリフレインするそれらのパーツすべてが、結末に向けての予兆なのかもしれないし、映画を観ている間中、私は実は「その事」を求めていたのかもしれない。そう思えるくらい最初からコントロールされている、完璧なバランスの作品なのではないでしょうか。
投げっぱなしジャーマンのような結末に憤慨している人もいるようですが、逆に今となってはあれ以上の結末なんて思い浮かばないし、ひょっとすると何かの筋は通ってる気もします。思えば、ずっとこの作品を映画館で鑑賞してそれをこぼれないように大事に持ち帰って、ずっとこの事ばかり考える数日間でした。こんな体験ができる映画なんて他にはないんじゃないかと思います。是非是非観て皆さんのレビューを読ませてください!
マインド亀

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