このレビューはネタバレを含みます
24.144(加筆中)
この映画を観て、「相対性」という言葉が最初に浮かびました
長野・水挽町の便利屋を務め、皆から信頼を受けている巧。その町に芸能事務所が企画したグランピング施設の建設計画が言い渡される。その説明会を機に高橋らがその町と巧に惹かれていく。
グランピングの説明会において、一見は都内の人間が川上で、町の人が川下という構図。
結果その印象は逆転する。
巧さんやお蕎麦屋さん(だっけ?)がそうであったように、あの町に根を張っていいる人たちも実は人間側であるが、グランピング計画のもとでは自然側(人間というよりもヒト)
青 Evil (does) exist
赤 Evil does not exist
対比が素晴らしい一方で、結局は地方対都会ではなく自然対人間なのである。
上流がそれ相応の身のこなし方をしないと下流とのバランスがとれなくなってしまう
川下からのぼって川上にたどり着くことはないが結論だとは思わなくて、「ひとつの川下はまた別の川上に馴染むことはない。果てしない海に流されるだけ。」が個人的な結論に落ち着きました。
冒頭の数分間にわたって木を見上げ続ける描写は、自然を下に見てはいけないことを訴え続けている。もしこれらが君のもとへ倒れてきたらひとたまりもなく死ぬだろう。人間である以上もう木々を切らずに生活をすることは難しい、だから自然に対して何もするなということではない。ただ能書き垂れていると痛い目に遭うぞという警鐘であるかのように感じた。上背の低いハナだからこそわかっているし、教えてくれたのかもしれない。便利屋として木を切削している巧の娘、ハナが鹿から危害を加えられるのは無念。でもそういうもの。