シゲーニョ

アメリカン・フィクションのシゲーニョのレビュー・感想・評価

アメリカン・フィクション(2023年製作の映画)
4.2
観終わった後、図らずも思い浮かべたのが、ジョン・カーペンター監督作「マウス・オブ・マッドネス(94年)」…。

「マウス〜」は、失踪したホラー作家を捜す保険調査員が恐怖の迷宮に迷い込む、“眩惑的世界”を描いた物語なのだが、だからと云って本作はホラー映画では全く無いし、H・P・ラブクラフトみたいな怪奇幻想テイストの作品でも無い。

本作「アメリカン・フィクション(23年)」は、“黒人らしさが足りない”と評された黒人の小説家セロニアス・エリソン=愛称モンク(ジェフリー・ライト)が、生活費稼ぎで勤めていた大学をクビになり、その後もいろいろあって、半ばヤケ気味になって書いた冗談のようなステレオタイプの黒人小説がベストセラーになり、思いがけないカタチで名声を得てしまう風刺コメディー。

ネタバレになるので詳細は伏せるが、ストーリー構成の中で「マウス〜」同様、入れ子構造と云うか、メタフィクションっぽい仕掛けが施されていて、知らず知らずのうちに主人公モンクの“なんちゃって世界=模造世界”にトリップさせられていたのでは?と、エンドクレジットをボーっと眺めながら、ふと考えさせられてしまったのだ。

冒頭、大学での講義中、モンクが書いたホワイトボードの文字に、「Nワードを書くな!」とクレームをつける、ぽっちゃりタイプの白人女子大生ブリタニー(スカイラー・ライト)。

書かれた文字は、ジョージア州出身の女流作家フラナリー・オコナーの短編小説、そのタイトル「The Artificial Ni○○er(人造黒人/55年)」。

田舎に住む白人の老人が唯一の家族である孫とアトランタ見物に出かけ、孫が抱く都会への幻想を打ち砕こうとするヒドい話で、生まれて初めて見た都会の黒人に驚いて失態を演じてしまった孫が、ついには群衆に囲まれ責め立てられると、老人は孫を見捨てて立ち去ってしまうという結末…。

モンクは「アメリカ南部文学の授業なんだから、アルカイックな考え方とか粗暴な言葉遣いも出てくるさ」と、どうって事ない感じで、平然と受け応えるのだが、その後、場面転換すると、ぽっちゃり女子大生が泣きじゃくりながら退室…。

先月の授業でもドイツ系の生徒に「お前の先祖はナチスだろ!?」と暴言を吐いて問題を起こしたそうなので、もしかしたら今回も、容姿や出自のことをイジったり、理詰めで追い込むといった、ある種のハラスメントを起こしてしまったのかもしれない。

だが、この冒頭のシーンは、本作の主題、その一つをおぼろげながらも表している。

「Nワードは問題です!」と意見する彼女の態度はとても重要で、これはズバリ、白人の免罪符みたいなものを主張している行為で、本当はちゃんと考えていない、フリをしただけの“なんちゃって反レイシスト”なのである。

要は、非当事者=白人側の「配慮しています感」を優先し、実際の差別構造は理解されないままという米国白人社会の縮図を、遠回しながら表現しているワケだ。

このように本作は、ステレオタイプを歓迎する白人たちが、実はその行為が黒人を差別している事に繋がっていると理解しているのか?…それを問い質す作品であるのだが、その裏側に、当事者である黒人が「自分が黒人であることをどう自覚しているのか」という、もう一つのテーマを潜ませた作品でもある。

主人公のモンクは常々、古典文学のようなアカデミックな小説を書きたいと思っているのだが、書き上げたばかりの小説は、出版社に「黒人のクセにアイスキュロスの二次創作みたいなもん書きやがって!」とボロクソに言われ、さらに「お前は黒人なんだから、俗受けする、白人警官に殺されるBuck系の若者か、貧困家庭の黒人シングルマザーの話を書け」と強要されてしまう。

まぁ、大衆文化の宿命として、本の売上を伸ばすためには、読者の大半を占める白人中産階級の価値観に配慮しなくてはならないのだろう。

凹んだモンクは、「We’s Lives in Da Ghetto(ゲットーに生きて)」という本を大ヒットさせ、“Golden Child(100年に一度の新星)”と謳われる黒人女流作家のシンタラ・ゴールデン(イッサ・レイ)の講演に顔を出すのだが、自身の作品内の、いかにも黒人らしい口調の台詞を読み上げるシンタラにイライラしてしまう。

シンタラが「ask」を「ax」と発音すれば、会場の参加者が総立ちして拍手喝采。
(真っ先に立って拍手をしたのは、白人女性だった…)

さらによせばイイのに、彼女の本を紹介する記事に目を通すと、“Painfully Real(痛いほどリアル)”とか“Raw(生々しい)”、“Urgent(大至急読め!)”など称賛する文字ばかり並んでいて、それをモンクは歯がゆく、「マジかよ!」と心の内で嘆くことしかできない。

最近のアメリカ小説にあまり馴染みのない、日本人の自分でさえも、ゲットー(=低所得者層地域)で育った黒人青年がストリートギャングになって、裏社会をのし上がっていく「「ボーイズ‘ン・ザ・フッド(91年)」、「ポケットいっぱいの涙(93年)」や、無実の黒人が白人警官に殺された実話の映画化「フルート・ベール駅で(13年)」、「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン(19年)」といったハリウッド作品の影響で、“アフリカ系アメリカ人とはこういうものだ”という印象を持ったり、認識させられてしまっている。

但し、4、5年前の古いデータで恐縮だが…
アメリカで黒人が被疑者となる暴力犯罪の割合は、全犯罪の21.7%。
警察官に殺害された総人数の内、黒人が殺害された割合は24%。

この数字を多いと思うか、少ないと思うか、その判断は個々に委ねるが、アメリカ国内外にある「黒人には犯罪者が多い」という認識は、奴隷制度から綿々と続く人種バイアス、「黒人は貧乏で、犯罪を起こしやすい」という偏見がもたらしたものだと、個人的ながら思えてしまう。

また、年間の世帯所得に目を移せば、白人が平均7万8000ドル弱なのに対し、黒人世帯は4万8000ドル強。これは高給を稼げる企業が、黒人労働者の雇用に消極的であることが要因の一つとされている。

つまり、依然として、「社会構造的差別」に黒人は苛まれているのだ。

劇中、モンクのエージェント、アーサー(ジョン・オーティス)の台詞が、それを上手く言い表している。
「白人が、リアルなものを欲していると思うだろうが、実はそうじゃない。白人たちは“(差別してきた罪を)赦されたい”、“罪悪感から逃れたい”と思っているだけなんだよ…」

言い換えれば、白人の読者たちは、“これまで虐げられてきたからこそ、黒人の書く文学が素晴らしい”というフィルターがかかった状態でしか評価出来ない。

黒人文学の本質には、まるっきり興味がないのだ。

劇中、モンクが、白い肌の人形と黒い肌の人形を眺める、黒人の男の子のモノクロ写真を見るシーンがある。

この写真は、黒人のケネス・クラーク博士とその妻メイミーにより行われた研究、“黒人の子供がどちらの人形を選ぶか”、その実験風景を写真家・映画監督・作家・ミュージシャンなど多才なキャリアを持つゴードン・パークスが撮影し、「Doll Test(47年)」と名付けられた有名な作品。

実験の結果、差別を受けて劣等感を持ってしまった黒人の子供のほとんどは、白い肌の人形を選んだそうで、当時の白人の黒人に対する態度が、如何に非人道的だったかということを証明している。
(注:この実験データは、白人と黒人の共学に反対する、白人主体の教育委員会への抗議としても使用されたそうだ…)

この写真を敢えて使用した監督コード・ジェファーソンの意図を勝手ながら推察すれば、「黒人は弱者だから守られる対象」という見方に嫌悪感を持っているモンクが、意に反して、黒人の生き辛さを主題にした小説を書いて良いのか、そのまま世に送り出して良いのか、そんな心の葛藤を間接的に暗示したかったのだと思う。

言われるがまま、黒人のトラウマをネタにした白人ウケしそうな小説を書くことって、白い肌の人形を選ぶことと変わらないんじゃないのか…、オレは白人社会に迎合しているんじゃないのか…。

但し、本作がユニークなのは、実は主人公のモンクが、大衆のイメージする黒人とはだいぶ異なるという点。
モンクは、自分以外はみんな医者という、裕福な家に生まれ育ったボンボンで、貧困も差別も経験の無い黒人なのだ。

死別した父親は地元ボストンでは優秀な医者と知られ、妹のリサ(トレイシー・エリス・ロス)は家族計画センターで働く中絶専門の産婦人科医、弟のクリフ(スターリング・K・ブラウン)も整形外科を営んでいて、実家には長年仕える黒人の家政婦ロレイン(マイラ・ルクレシア・テイラー)がおり、別荘としてビーチ・ハウスも所有している。

結局のところ、モンクは黒人の痛みを知ったかぶりしている“なんちゃって黒人”で、冒頭の大学の講義のシーンを振り返れば、ボストン生まれのアメリカ北部出身者が、さも南部の黒人文学のエキスパートのようなフリをして、論説をぶちまけていたのだ。

もしも本場の南部黒人が、モンクの授業を受けたら、「お前がそれを教えるのかよ!?」と絶対にツッコまれるだろう(笑)。

そもそも演じたジェフリー・ライトも、「007シリーズ」のCIAエージェントのフェリックス・ライターや、「バットマンシリーズ」のゴードン警部補など、これまで原作含め、白人であることが当然とされてきたキャラクターを演じて、「ポリコレ意識しすぎのキャスティングじゃない!?」と揶揄された実績のあるお方で、固定観念を覆す“なんちゃってキャラ”はお得意のはず…(笑)。

さらに注視すべきが、主人公の愛称。
その由来となっているのは、即興演奏など独創的なスタイルで知られるジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンク。

だが本作の劇伴には、ジーン・ハリス率いるピアノ・トリオ、ザ・スリー・サウンズの「Book of Slim(73年)」など多くのジャズが使用されているのに、セロニアス・モンクの楽曲は一曲も流れない。

ここからは勝手な推論だが、愛称のモンクはブラフみたいなもんで、彼のファミリーネーム、“エリソン=Ellison”の方に意味があるように思えてならない。
主人公モンクの生業を併せて思い浮かべると、そのイメージソースになったと思われる、エリソンと名がつく実在の著名な作家が3人いるのだ。

1人目は、米国社会における人種差別や偏見に直面しながら、アイデンティティーを模索する黒人青年を描いた「見えない人間(52年)」の著者ラルフ・エリソン。次に、黒人の離婚・子育て・家族の再生をテーマに執筆、講演活動を行うシーラ・エリソン。

そして、尖鋭的な作風と過激な言動で人気が高いSF作家ハーラン・エリソンだ。

ハーラン・エリソンは、「恐怖の夜(61年)」や「死人の目から消えた銀貨(69年)」といった短編作品で、其れとなしに黒人に対する差別、理不尽な社会を糺弾しており、また、自分の文章をクサした大学教授をブン殴った逸話があるなど、誰それに噛みついたなどと云うレベルの話は数知れず…アメリカの文壇における風雲児である。


さて本作「アメリカン・フィクション」は、パーシヴァル・エヴェレットの小説「Erasure(01年)」を脚色したものだが、この原作は、90年代末からゼロ年代に蔓延した“アフリカ系アメリカ人文学はこう書かれるべき”という出版業界の考え方、そんな風潮に対して、「そんなアホな!?」と疑問を呈した作品と云われている。

当時の出版市場が欲していたのは、怒りを抱えた黒人の主人公が仲間同士で殺し合ったり、警官に撃ち殺されたりする不遇のゲットー居住民を描いた物語で、読者もしたり顔で「これぞリアルだ!」と歓迎していた。そこで、エヴェレットは、主人公のモンクに似非DA HOOD風の小説を上梓させることにする。

原作でモンクがパクったのは、アフリカ系アメリカ人による小説を世界文学の域へと高らしめたと称される、リチャード・ライトの「ネイティブ・サンーアメリカの息子―(40年)」で、1930年代の大恐慌下、コミュニストの白人資産家令嬢を誤って殺害した黒人青年の逃走劇を、モンク(=エヴェレット)はゲットー風味に解体している。

但し、この映画版では、母アグネス(レスリー・アガムズ)がアルツハイマーを発症し、その治療費、ゆくゆくは介護施設に入れる大金が必要になったため、売れる小説、大衆が望む“黒人による黒人らしい”小説を書かなくてはと、追い込まれたことが執筆の動機になっていて、しかも着想を得たのが、ヒップホップ界の問題児50セントの半自伝的映画「ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン(05年)」(!!)

「ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン」は、父親の顔も名前も知らず、母親も殺された天涯孤独の黒人少年がドラッグ商売で名を上げたものの、刑務所に収監され、そこで出会った相棒と組んでラッパーとしての成功を手にしようとする物語で、劇中の台詞、「誰も助けてくれないのなら、自分の力でノシ上がれ!」の一言で目を覚まされたモンクは、Boyz'n The Hoodチックな小説を書き始める。

(注:モンクは「ゲット〜」の他にも、TVで“ながら見”していた、自立できない黒人青年の心の葛藤を描いた「サウス・セントラルLA(01年)」、NY・ハーレムのドン底生活を懸命に生きる黒人少女が主人公の「プレシャス(09年)」、ヒップホップ・グループN.W.Aの伝記映画「ストレイト・アウタ・コンプトン(15年)」等をモチーフとしている)

さっそく書斎でモンクは、文章を考えながらタイピングするのだが、なんと! 小説の中の人物が目の前に実像化して現れ、書いた台詞通りの言葉を吐く。
この場面で特段ユニークなのは、モンクが考えた台詞がイマイチだった場合、小説のキャラが「もっといい台詞はないのか?!」と、タイピングするモンクに向かって、まさに“文句”を言うところ(笑)。

「Midnight Black Complete…(闇のような真っ黒い顔…)」という言葉がダサく、ギャングスタっぽくないと感じたため、「Cold Black Skin(漆黒の肌)」と書き直させるのだが、この文句を言う小説の中の登場人物、ダメな黒人オヤジを演じているのが、キース・デイヴィッドというのがまたヒネリが効いている。

キース・デイヴィッドは、主に80年代のアクション&SF映画に出演していた脇役専門の役者なのだが、「遊星からの物体X(82年)」とか「ゼイリブ(88年)」に代表されるように、一見“よくいる悪者の黒人”に思えて実は主人公を助ける“イイ奴”だったという、見て呉れとは違う役柄を演じていることが多い。

つまり、この劇中劇(?)でも、固定観念を覆すキャスティングをしているワケだ。
(そう云えば、キース・デイヴィッドは「メリーに首ったけ(98年)」でも、キャメロン・ディアスの義父という、ミスマッチにも程がある役柄を演じていた…笑)

このように母親の治療費を捻出するために、渋々始めた執筆作業だったはずが、これまで出版業界に冷遇されたことへの仕返し、シンタラを持て囃すクダラナイ書評などによって生じた、「みんな頭が悪すぎてムカつく!」という怒りから、既成の映画をパクった、バカバカしいステレオタイプの黒人が登場する、絶対に売れないであろう「クズの物語」をモンクは脱稿する。

さらにモンクは、冗談で書いたクズ物語に実名は相応しくないと思い、Thug風のペンネームを使うことを決めるのだが、その名前がなんと「スタッグ・R・リー」。

米国のリズム&ブルース史に詳しい方ならすぐにピン!と来ると思うが、この「スタッグ・R・リー」って、タフな黒人男性の象徴&白人権威への反逆者として、20世紀初頭から語り継がれる「スタッガ・リー」という実在した人物の名前をモジったもの…。

スタッガ・リーを主題にした歌は300曲以上とも云われ、ジャンルを問わず多くのアーティストがリリースしている。
最もポピュラーな曲はロイド・プライスが歌った「Stagger Lee(59年)」で、全米ヒットチャートNo.1に輝き、1983年にはジャマイカン・ソウルの重鎮キダスアイがスライ&ロビーとのコラボでカバーしている。

因みに、自分がスタッガ・リーの名前を知ったのは高校時代の頃で、当時大好きだったザ・クラッシュの「Wrong ‘Em Boyo(79年)」のAメロ、出だしの歌詞が「♪〜Stagger Lee Met Billy〜♪」だったから…。

まぁ、日本風に敢えて例えるのなら、モノマネ芸人が本家の名前をモジって芸名にする「長州小力」とか「ニッチロー」と何ら変わらないワケで、そんなことも分からない白人編集者を小バカにした、モンクの「なんちゃって世界」に引き込むトリック、その一つと言っていいだろう。

なので、変な冗談かと思われ、すぐにツキ返されると思っていたのだが、出版社の編集者は「Raw!」「Real!」と、シンタラを絶賛した時と同じような言葉を使って褒めちぎり、前金で原稿料75万ドル!さらには奴隷解放日(=6月19日)に発売しよう!などと、笑うに笑えないバカげた提案までする。

そんなこんなで…出版社の止むことない日和見主義に抗うことに疲れたのか、あるいはこんなバカげた小説で注目を浴びるのは避けたいと思い直したのか、ついにブチ切れたモンクは、「My Pathology(自分の病状)」を黒人風にアレンジした、なんちゃってタイトル「My Pafology」を、まんまFワードの「F**K」に変えないと契約は白紙!出版を許さない!と脅しをかけるのだが、「この上なく挑発的な題名で最高!」と逆に編集者にバカ受けされてしまう。

そしてとうとう出版された本の装丁が、黒人による黒人の物語なのに、純白(!?)のカバーに、黒のインクで書かれたタイトル「F**K」…。

初版30万部売れて増刷決定!マイケル・B・ジョーダン主演で映画化も決定!今年の文学賞にもノミネートされて、審査員から「これほど力強い黒人小説を読んだことがなかった!」「時代に必要な作品だ!」と絶賛の嵐!!

やっと出来たガールフレンド、コラライン(エリカ・アレクサンダー)も、勿論モンクが書いた小説とは知らずに「気に入ったわ!」と読んだ感想を述べると、本意じゃない作品を褒められたことに困惑したモンクは、「こんな本はリアルじゃない!いくら人生が辛くてもこんな本に頼るべきじゃない…流行に乗れるからって白人が食いつくような本だ!」と、つい声を荒げてしまう。

自分が書いた本を「クズ小説」と恋人の前で自らボロクソに否定して、“もうわけわからん!俺、何やってんだろう?”状態に陥ったモンク。

そんなモンクに追い打ちをかけたのが、「利益のために黒人のトラウマをネタにするアンタは、ヤクの売人と同じだ!」と、モンクに嘲弄されたシンタラの反論。

「私は、人が興味を持つ話を書いているだけ。虐げられた黒人ばかり書いていると思われたとしても、それは論調の中心にいる白人側の視点。黒人をステレオタイプの型に嵌め過ぎて、彼らの可能性(=ポテンシャル)を潰しているとあなたは言うけど、あなた自身が現状に満足していないだけでしょ?」

自分が思うほど周りは評価してくれない。
自分には未だ秘めた能力(=ポテンシャル)があるはずだ。
ならば周りの意識に合わせて、俗受けするような姿に、一旦自分を変えてみよう…。

なんちゃって世界=模造世界に身を投じた理由を、シンタラにズバリ言い当てられたモンクは、ぐうの音も出ない。
この時のモンクは、冒頭のシーン、自分の講義で注意したぽっちゃり白人女子大生と何ら変わらなく見えてしまう。

自分たち白人が生んだ差別的表現なのに、白人である立場を忘れて“見当違いの文句”を言う彼女と、モラル高き文筆家と自惚れながら、結局のところ、黒人だからこそ描けるはずの“リアルな黒人の物語”を書けないでブツクサ不満がるモンクが、なんとなくだが、ダブって見えてきてしまったのだ…。

モンクは「黒人のリアリティーを追求したい」と日々思い願っているが、実のところ、彼の周りには読み手を惹きつけるような事柄=リアリティーがいっぱいある。

白人女性と浮気したことが公にバレて自殺した父親。
父の不倫を知りながら家を守った母。
ゲイなのに世間体を気にして女性と結婚した弟。
男どもが家を出た後、不本意ながら母を支えた妹。
そして、家政婦と長年の知り合いの警官の老いらくの恋…。

しかし皮肉な事に、モンクは現実と向き合うことが苦手なため、それに気付けない。
(あるいは、自身の人生を反映した作品を書いて、歪んだ解釈をされることを恐れているのかもしれない…)

これは育った家庭環境に問題があるのかもしれない。
母アグネスが長男のモンクに「お前はお父さんそっくり。天才なのよ」と寵愛し過ぎた故に、モンクは自分の存在を大きく肯定するように育ってしまったのだろう。

「自分は特別な人間だ」という思いが強くなれば、それに比例して相手の気持ちとか、立場など考えなくなる。
そして自分の才能が認められないと、「何故わからない?」と他人の見る目の無さを嘆くようになる。

そんなモンクは、弟のクリスから「みんな、お前を愛したがっているんだ。だから他人から愛されるようにしろ!」と諭されたり、恋人のコララインに「他人と関わらないことが、名誉の勲章だと思っているんでしょ!」とドヤされたりするのだが…。

実は冒頭のオープニングクレジット、そこで流れたBGMで、「この映画は、思い込みの激しい孤独な男が主人公の物語なんですよ」という、監督コード・ジェファーソンからのメッセージが既に語られている。

モンクの過去と思しき情景と、今現在囚われている妄想を描いたようなイラストが幾重にも映し出されながら、聴こえてくるのが、エイス・スペクトラムのソウルフルなナンバー「Without You(75年)」。

「♪〜僕の家に戻ってきてくれたんだね/君からの愛を感じる/もう僕は一人じゃないんだ/(中略)夢の中で毎日、僕たちは愛しあえるよね?〜♪」

他人との関わりを拒絶し、いるはずのない恋人のことを妄想する男を歌った曲なのである…。


最後に…

ここまで自分の拙いレビューをお読み頂いた方には、本作「アメリカン・フィクション」が、ミイラ取りがミイラになるようなおハナシに思えるかもしれない。
(レビュー冒頭に書いた「マウス・オブ・マッドネス」は、まさにそんな結末…笑)

しかし、劇中最後のクライマックスで描かれる、主人公モンクのある幾つかの行動において、どれが真実だったのかという選択を観る者は迫られる。

更に突っ込んで書けば、冒頭のシーンからこのクライマックスまでの全てが、モンクが書いた小説の劇中劇だったのでは?という疑念さえ抱くかもしれない。

まぁ、これ以上書くと、物語の核心に触れるので自粛するが、その直後に訪れるシーンがとても印象に残った。

撮影中の映画のスタンバイをしているエキストラだろうか、南北戦争前後のアメリカ南部にいたような、プランテーションで働く奴隷を思わせる衣装を着た黒人の役者を一目見たモンクが、「またそんな格好させられているのかよ…」と苦笑気味のリアクションをするのだ。

そこに聴こえてくるのが、シャンソンのスタンダードナンバー「Les Feuilles mortes(枯葉/45年)」。

1949年に米国に持ち込まれた際、「Autumn Leaves」という英題が付けられ、以降、歌曲並びにインストゥルメンタルとして、多くのアーティストたちにカバーされた「模倣」の典型とも云える曲だ。

本作で流れるのは、ミディアム・テンポにアレンジされたキャノンボール・アダレイ版。

何を言いたいのかというと、この曲は有名無名を問わず無数のアーティストが模倣を繰り返したことで、今やジョセフ・コズマが作曲した原曲の姿を留めていない曲まで流布しており、「これは『枯葉』じゃなぃぃぃ…!」と失望する人も結構いる。

そこで、この曲を、本作にわざわざ使用した意図を勝手ながら推察すると…

模倣再生を繰り返したり、俗受けを狙い過ぎたり、あるいはポリコレを過度に意識したりすれば、いずれ、映画そのものの本質=エンターテイメントとしての価値が低下してしまうことを示唆する、ハリウッド・メジャースタジオへの警鐘的メッセージに思えてしまうのだ。

先述した、終盤のクライマックスにモンクがとった幾つかの行動、その最後が仮に正解であるのならば、その危険性を大きく孕んでいるし、ラストに見せたモンクの苦虫を噛み潰したような表情も、「Black Lives Matter」と声高に叫びながら、未だにハリウッドが、奴隷所有が許されていた時代を平然と描いている状況に呆れ返っているからだろう。

また、劇中、母アグネスが介護施設に入所する時、モンクが気を利かせて実家から持ってきた絵を、アグネスは「その絵は嫌い!」と言い、壁に掛けることを拒否するシーンがある。

この絵は、20世紀の米国クラシック界を代表する作曲家ジョージ・ガーシュウィンの従兄弟、白人画家のヘンリー・ボトキンが手がけたもので、タイトルは「Fiddler(バイオリン弾き/48年)」。

ボトキンはガーシュウィン同様に人種差別の壁を越え、黒人を情緒たっぷりに描いた画家として知られている。

つまり、ボトキンの創作意図、その真意は別にして(汗)、白人が黒人をわざわざ情緒的に描くこと、黒人を幻想的に描けば素晴らしいと評価すること自体が、そもそも“黒人を見下す行為ではないのか?”と、アグネスの言動を通して問うているのだ。

まさにタイトルの通り、本作「アメリカン・フィクション」はアメリカ人が作る虚構の成果物(小説・映画だけではなく、音楽&絵画も含め…)、その将来を世に問う作品であり、だからこそ、批評家や記者は入会できない「映画の作り手」だけで構成される会員が投票する、保守的な米国アカデミー賞では、脚色賞しか獲れなかったのかもしれない…(爆)。


追補:

パーシヴァル・エヴェレットの原作では、たしかモンクは姉と兄のいる末っ子の設定で、多分それに準じて、日本語字幕や吹き替えは、リサを「姐さん」、クリフを「兄さん」と、モンクに呼ばせているのだろう。

だが、もしかしたら自分だけかもしれないが…
劇中の会話のやり取り、そして見た目から、リサは妹、クリフが弟のように思えてしまった。

演じたジェフリー・ライトが1965年生まれ、対してトレイシー・エリス・ロスが1972年、スターリング・K・ブラウンが1976年生まれということもあるが、おそらく、脚色した監督のコード・ジェファーソンが、モンクを両親から特別に可愛がられた設定にしたかったため、長男(=初めて授かった子)に改変したと推測するのだが…(汗)。

ご覧になられた多くの方はお気付きになっていると思うが、本作「アメリカン・フィクション」は“家庭内ヒエラルキー”にもフォーカスしている。

劇中の端々に、“エリソン家は家父長制的な意識が強い”と推察される描写が結構あるのだ。

母アグネスが久々に帰省したモンクを「あぁ〜かわいいモンキー♡」と喜び勇んでハグする一方、リサには「なんでアンタの別れた旦那は、モンクに挨拶に来ないの?」と嫌味を言う場面は、モンクが家を継ぐ第一子として産まれ、両親に溺愛されたことをうっすら窺わせるし、ゲイであることを隠してクリフが女性と結婚したのも、“家父長制において同性愛者は家の恥”という古いしきたり、その所以からだろう。

特に妹のリサにしてみれば、家業を継ぐと思った長男が唯我独尊な性格ゆえ、小説家を目指したことで、父と同じ産婦人科医をやらされることになったり、父の死後は、白人の中絶反対論者の暴力的抗議から、経済的に余裕がない黒人の妊婦を守るために、街中の家族計画センターで働くなどしているワケで、その志は別として「自分はアニキのせいで踏んだり蹴ったりの人生を歩かされている」と思っていても不思議ではない…。

なので、劇中、モンクが「父が亡くなったあの日から、家族は変わってしまった…」と呟いた時、「これまで家族に無関心だったクセして!」と一瞬ツッコみたくなったが(笑)、妻と子に認められる絶対的な象徴だった“家の長”である父親が、白人女性と不倫したことに罪悪感を覚え、拳銃自殺してしまったことは、残された家族にとって相当ショックだったろうし、もしかしたらクリフあたりは「やっと父の支配から解放される…」とそっと胸を撫で下ろしたかもしれない。

だから、中盤、ツーソンに戻るクリフが、別れ際にコララインに吐き捨てるように言った「ウチの家族は普通じゃないぞ…」は、聞き逃せない、本作の裏テーマのような、重みのある言葉に思えてしまったのだ…。