シゲーニョ

シング・ストリート 未来へのうたのシゲーニョのレビュー・感想・評価

4.2
女子の気を引くために、あるいは憧れの女子の一言で、バンドを組んだり、音楽にのめり込んだりする映画は過去にもあった。

すぐに思い当たるのが、大槻ケンヂの同名小説を映画化した「グミ・チョコレート・パイン(07年)」。
入江悠の「日々ロック(14年)」もナードでヘタレなロッカーが運命を変える女の子と出会うという、まさにそんな映画。大林宣彦の「青春デンデケデケデケ(92年)」のメンバーにもそんな奴が一人いたと思うし、バンドの話じゃないが「パッチギ(04年)」の主人公も、沢尻エリカと仲良くなりたい一心でギターを猛練習していたし…。

あと動機はハッキリ描かれていないが、「エレキの若大将(65年)」の加山雄三演じる若大将だって、「バック・トゥ・ザ・フューチャー(85年)」のマーティだって、“女の子にモテたい!”という邪な考えが、バンド結成の理由、その一つにあったことは間違いないはずだ(笑)。

本作「シング・ストリート 未来へのうた(16年)」もそんな系譜を継ぐ作品と云えるが、とりわけ斬新なのが1980年代、MTVに代表されるミュージック・ビデオの全盛期を舞台に、ミュージック・クリップ=PV(プロモーション・ビデオ)を最も重要な要素(好きな女子におもねるオプション)として扱っていることだろう。

物語の主人公は、1985年、アイルランドの首都ダブリンで、父ロバート(エイダン・ギレン)、母ペニー(マリア・ドイル・ケネディ)、兄ブレンダン(ジャック・レイナー)、姉アン(ケリー・ソーントン)と暮らす14歳の少年コナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)。

不況の煽りを受け、オヤジが失業したことで、末っ子のコナーはイエズス会の名門私立校から学費の安い公立校「シング・ストリート」に転校させられてしまう。
カトリックの修道会が運営する転校先の学校は、校訓は厳しいはずなのに、実際にはヤンキーたちが暴れ回り、教師が授業中に酒を呷る、ヤンチャな環境…。

「Act Manly(雄々しくあれ!)」という校訓を大きく勘違いした在校生たちは、ケンカ、タバコ、平気で路上に唾を吐くなど荒れ放題。
全く雄々しくない(笑)、見た目ヤワそうなコナーは転校初日早々、即イジメっ子の標的に決定し、校長からは「校則と違う靴を履いている!」と、校内では靴下で歩くことを命じられる。

そんな最悪な学校生活を送る中、コナーはラフィーナ(ルーシー・ボイントン)という1つ年上の自称グラビアモデルと出会い、彼女の気を引くため、「ボクのバンドのPVに出ない?」と誘って電話番号をなんとかゲット。

しかしコナーは気づく。
「オレ、バンドやってなかった…(汗)」

女子の目を惹くエサとして、PVが閃いたのにはワケがある。

ストレスの溜まる冴えない日々を送り続け、家ではギターを爪弾き、モヤモヤした気持ちをデタラメに歌うコナーのささやかな楽しみは、毎週木曜日に放送される英国製の音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」を兄ブレンダンと一緒に見ること。

熱狂的な音楽狂いの兄は隣国ロンドン発のブリティッシュ・ロックを好み、コナーもまた当時ロックの「聖地」であったロンドンに憧れを抱いていた…。

コナーとブレンダンが毎週欠かさず観ていることを、母親も知っているのだろう。
「もうすぐ、始まるわよ」と声をかけ、二人とも部屋からTVのあるリビングに勇んでやって来る。

TV画面に映し出されるのは、デュラン・デュランの「Rio(82年)」、そのPVだ。

ブレンダンは見るなり、「Yes!Beautiful!」と雄叫びを上げ、弟コナーに蘊蓄を語り始める。
「まだ未知数のバンドだけれど、英国No.1のベーシスト、ジョン・テイラーが鋭い切れ味を与えている…」

この一家言には、自分も全くの同意で、デビュー当時、見た目先行のビジュアル系バンドな感じだったが、ちゃ〜んと聴くとジョン・テイラーのベースラインが、シックの「Good Times(78年)」のようにファンク&ディスコティックでカッコよく、特に3rdアルバム「Seven and the Ragged Tiger(83年)」あたりから、ドラム&ベースのリズム隊がドーン!と音の塊になって前面に出てきて、バンドをジョン・テイラーが牽引しているのがハッキリと分かる。

さて、トップ・オブ・ザ・ポップスのことを簡単に説明すると、英国のTV局BBCで、1964年から2006年夏まで約40年以上に渡り、OAされ続けた生放送による音楽番組。

ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クイーン、オアシスいった大御所は勿論、ジミ・ヘンドリックス、ダイアナ・ロス、マドンナ、マライア・キャリー、ビヨンセなど米国アーティストも生出演を果たした、所謂レジェンド番組で、見どころは、普段ライブでしかお目にかかれない、時代の先端を行く人気アーティストたちによるスタジオでの生パフォーマンス。

だから、コナーの父ロバートが、デュラン・デュランのPVを見て「なんだ、コイツら演奏できないのか?」と茶化すのは大変ごもっともなことなのだが、今回番組内でPVが流れるのは、劇中ブレンダンの台詞でもあるように、「デュラン・デュランが渡米中」だったから。
前年の1984年、シックのナイル・ロジャースがリミックスした「The Reflex」が全米No.1ヒット、続くシングル「The Wild Boys」が4週連続2位のスマッシュヒットを飾り、バンドが活動の場をアメリカに移していたのだ。

しかしそういう事情があったにせよ、なんで3年前の古いクリップ「Rio」をワザワザOAしたのか、個人的に疑問なのだが…(汗)。
本作が、85年の春から夏が始まる頃までを時代背景にしていることを鑑みれば、流すPVはリリースしたばかりの007シリーズ14作目の主題歌「A View to a Kill(美しき獲物たち)」のはず…。
たぶん、公開時から30年ほど前の時代の話を、当時を知らない世代が共感できるストーリーにするには、そこまで細かな正確性は必要ないということなのだろう。

まぁ、それはさておき、ここでブレンダンが弟コナーの未来を変える名言を吐く。

「ミュージック・ビデオはアートなんだ。
 絵画や彫刻のように永遠に残る。
 音楽と映像、その完璧な融合…。
 どんな独裁者も勝てない…
 回りくどくない、その明快さが魅力なんだ!」

コナーにしてみれば「どんな独裁者も勝てない…」という一言が、体に電気が走るような感覚を起こさせたのだろう。

両親や学校の先生、イジメっ子といった荒ぶる者、権力者に屈せず、「自分らしくありのまま生きよう!」と思い直し、とりあえず、気になった可愛い女の子をゲットするために、バンドも結成していないのに(笑)PVを作ろうと決意させたのだ。

本作「シング・ストリート」は、80年代にウルトラヴォックス、アダム&ジ・アンツ、ヒューマン・リーグといった“ニューロマンティック”勢がMTVのために作ったカラフルなPVが、同時代のティーンに如何に影響を与えたかを証明する“青春映画”だが、それと共に、歴史的大不況で、アイルランドから英国ロンドンに移住する若者が急増した暗黒期を描いた“過ぎ去りし青春の寓話”とも云えるだろう。

失業率20%を超え、低迷した経済状況に陥っていた80年代のアイルランドは、西ヨーロッパ諸国の中では生活水準が最も低い国の一つとされ、“ヨーロッパの病人”とも言われてきた。
そのため、多くの若者が海の向こう、英国ロンドンで生まれるブリティッシュ・ロックに、ロマンを抱き、一種の渇望を満たそうとしていたのだ。

どうにもならない周囲の世界から逃げ出し、どこかここではないところに思いを馳せる…。

コナーのような音楽好きなダブリンの若者たちがロンドンを「聖地」と呼んだのは、自身の置かれた環境から脱したいという「希望の光」をロンドンに見出したからなのだろう。

本作は、監督のジョン・カーニーがダブリンで過ごした子供時代を、半自伝的に描いたものだ。

「ONCE ダブリンの街角で(06年)」「はじまりのうた(13年)」と、ここまで音楽系映画一筋でやってきたジョン・カーニーだが、今回は前述した遠く離れた英国ロンドンへの思い、父親の失業による家庭不和、イジメっ子の実態など、監督の実体験が、これまで以上に作品に奥行きを与えていると思う。
(但し、実のところ、ジョン・カーニーは少年時代、バンド結成の夢は叶わず、気になる女の子に声をかけることも出来なかったそうだ…笑)

だからと言って、終始、観ていて伏し目がちになるような、リアルで辛いドラマが描かれているワケではない。

思春期の少年が、自分を取り巻く家族や友人、恋人をどのように捉え、思春期の葛藤をどのように乗り越えていくのかを、一つひとつ、丁寧にエピソードを重ねて紡ぎ上げ、オッサンの自分でさえも、観ていてエンパシーが湧いてくる。

先ず、コナーを取り巻く人々がステキすぎて、ホント最高なのだ(!!)。

特に物語をユニークにしているエッセンスの一つが、兄ブレンダンの存在。

ピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモア風のヘアスタイルで、大学をワケあって中退し、現在絶賛引きこもり中なのだが、弟コナーにとってはまさにメンター(助言者)であり、一度だけコナーに「お前はオレが切り開いた道を、後ろからついて来ているだけじゃないか!」とキレる場面もあるが,心の底からコナーのことを思っていて、弟が恋や人生に悩む度に的確な音楽(=もちろんロック!)を紹介し、更にはグッとくる言葉を与えてくれる。

棚から抜き出してくるアナログ盤のセレクトがまた絶妙で、自分の愛聴するロックの名盤をコナーに聴かせる姿は、「スクール・オブ・ロック(13年)」のジャック・ブラック、ロックの真髄を説く姿は、「あの頃ペニー・レインと(00年)」のフィリップ・シーモア・カフマンを彷彿させる。

例えば、大慌てでバンドを結成したコナーが初めて作ったデモテープ、デュラン・デュランの「Rio」を聴くシーン。
ブレンダンは聴き終わるや、「他人の曲で女の子を口説くのは邪道だ!」とコナーをドヤしつける。

コナーは「まだ(演奏も曲作りも)下手くそなんで…」と言い訳するが、「セックス・ピストルズが上手いと思うか?最初から上手にやろうなんて考えるな!それがロックだ!!カバーはやめろ!パブでも結婚式でも至る所でカバーバンドがいる。奴らオヤジたちは真剣に音楽をやったことがない。曲を書く根性がないんだ」と、怒涛の如く捲し立てた末に、「ロックは覚悟が必要だ!笑われてもいいからオリジナルを演るのがロックなんだ!」という金言を言い放つ。

更には、ラフィーナにリッチなボーイフレンドらしき人物がいると知り、落ち込むコナーに、その彼氏の愛車がGOLFのコンバーチブルで、カーステからはジェネシスのキャッチーなナンバー、フィル・コリンズがボーカルを担当した「Paperlate(82年)」が爆音で流れていたと知るや、「心配すんな!奴は敵じゃない。フィル・コリンズを聴く男に女はなびかない」と言って、自信をつけさせる。

まぁ、実際にフィル・コリンズの男性ファンにガールフレンドが出来づらいのかよく知らないが(笑)、あくまでも勝手な推察だが、元々プログレ・バンドだったジェネシスが、大衆に迎合するかのようにいつの間にかポップミュージックを奏で、メインストリームの主役へと躍り出たことが、ロックにうるさいブレンダンにしてみれば、「ダサい」とやっかむには絶好のターゲットだったのだろう。

但し、戸惑ったり、悩んだりする弟に、人生を“ロックする!”ことを多くの金言&迷言を交えて伝え、ある時には「大丈夫!それでいいんだ…」と背中を押し、ある時には「ホントにそれでイイのか?」と立ち止まらせて考えさせる兄貴ブレンダンの姿は、劇場で観ている半世紀近く生きてきたオッサンの自分にも、「今でも、こんなアニキが欲しい〜♡」と思わせる程、困るくらいイケてる感じがした。

そんな兄貴の指導でロック少年へと成長するコナーは、パッと見=外見にも変化が及んでくる。

ひとまずバンドの練習曲に「Rio」を選んだら、デュラン・デュランのニック・ローズかヴィサージみたいな、髪にメッシュ、ニュー・ロマ特有のエジプト風のアイラインを入れるなど、ビビッドなメイクをするし、TVでスパンダー・バレエの「Gold(83年)」のクリップを観ているブレンダンが興奮して、「That’s Amazing!」と叫べば、その翌日には、ボーカルのトニー・ハドリーがPV内でかけていたグラサンそっくりのものをどっかからゲットし、肩の張った大きな襟のコートを着て登校する。

このように、劇中のコナーはPV を見たり、ブレンダンから「ロック指導」を受ける度に、そのアーティストに影響を受け、ファッションや音楽性を節操なくコロコロ変化させていくのだが、但し、自分には、時代の流行りを安易にトレースせずに、とてもリアリティのある雰囲気・仕上がりになっているように見受けられた。

ダブリンに住む10代の貧しい若者たちが、なんとかそれっぽく見せようと背伸びしている感じ、頑張っているけど絶妙に垢抜けてはいない感じが、とっても微笑ましく思えてしまったのだ(笑)。

そして、なんとなく集まってくるバンドのメンバーも、それぞれ個性的だ。

アイリッシュ風の赤毛のチビで、歯の矯正をしている、コマしゃくれたマネージャー役のダーレン(ベン・キャロラン)をはじめ、「黒人メンバーがいると、ハクがつく」なんていう理由からバンドに誘われた、キーボード担当のンギグ(バーシー・チャンブルカ)などなど、バンドのメンバーたちは凸凹を極め、最強のキャスティングだと思う(笑)。

しかもそれぞれ得意分野を持っているのがユニーク。
コナーが恋心を歌詞に綴れば、仲間のひとりがピッタリの曲をつけ、他のメンバーがアレンジし、また別のメンバーが録音し、PVを作成する。
それぞれの若者が、ホンの出来心で参加したバンド活動をきっかけに、それぞれのやり方で見えない壁を超えていく…。

遊びが夢に、夢が人生へと繋がっていく様は、実にリアルで共感できる。

そんな曲作りのキーマンとなるのが、ギター担当のエイモン(マーク・マッケンナ)。

銀縁メガネで、「Cry Boy Cry(82年)」の好セールスで知られる一発屋バンド、ブルー・ズーのギタリスト、ティム・バリーにやや似ている風貌ながら、自宅では子ウサギを肌身離さず抱えていて、ちょっと内向的な感じもするが、エイモンの父親が結婚式の余興でコピーバンド演奏を行うことから、エイモンの家には楽器が豊富にあり、そんな理由で楽器に万能なマルチ・プレイヤー。

ベースで挨拶代わりにザ・キュアーの「The Love Cats(83年)」、キーボードで「ビバリーヒルズ・コップ(84年)」の劇中曲「Axel F」を即興で奏でれば、ドラム、ギターはもちろん、横笛、木琴、ボンゴ、なんとバグパイプ(!)までソツなくプレイ。

このエイモンっていうキャラが実に効いていて、普段は飄々としていて何を考えているかわからないタイプなのだが、コナーが「一緒に曲を作ろう」と遊びに来れば、すぐに家に入れ、コナーが書いてきた歌詞にアコギでコードを付け、次はサビの部分を考えていくという具合で、実はソングライティングの才能があることをさり気なく、劇中で示される。

コナーとエイモンは、本作に於いて、まさにビートルズのレノン&マッカートニーという関係で、バンドの自作曲が、曲作りに全くつまずかずにスンナリ出来てしまうことに、観ていて納得させられてしまうのだ。

個人的に一番のお気に入りは、バンドにとって2番目に書かれたオリジナル楽曲「Up」。
コナーの(たぶん)初恋のドキドキ感を顕した爽やかなナンバーだ。

「♪〜素晴らしい気分だ/高く上るよ/彼女が光を照らしてくれる/壊れそうなボクを/彼女が引き上げてくれるんだ〜♪」

歌詞やメロディーは言うまでもなく、この曲をひときわ印象深くしているのは、その秀逸なカメラワーク&編集だ。

この曲は最初、エイモンの自宅で、コナーとエイモン二人、ピアノとギターで作曲する中、その断片・フレーズが一つずつ生み出される場面から始まるのだが、カメラが少しずつ右へPanすると、キーボード、ベース、ドラムと各パートが重なっていき、最終的にはメンバー全員集合して、サビのコーラスへと繋がる。

日付、あるいは時間は異なっているのに、同じエイモンの自宅内で、ワンカットで違和感なくシームレスに映し出されるこのシーンは、非現実的な描写であるにも拘らず、ビジュアルの楽しさに満ち溢れている。

そしてこの演奏シーンの一連の流れ、あたかも完成した曲がコナーの背中を押し、最愛の人ラフィーナの元へと向かわせる展開を見ると、始まりはほんの小さなパーツだったものが、徐々に曲として、バンドとして、そしてラフィーナへの想いとして、大きく膨らみ、形作られていく様を表しているようで、観ていてコッチの気分も上がってくる。

さて、すでに本作をご覧になられた方々にはご承知のことと思うが…

コナーとエイモンが作った曲は、最初の曲「The Riddle of the Model(モデルの謎)」がデュラン・デュランの「Girls on Film(グラビアの美少女/81年)」、3曲めの「A Beautiful Sea」はザ・キュアーの「In Between Days(85年)」、続く「Drive It Like You Stole It(思い切りアクセルを踏め)」がホール&オーツの「Maneater(82年)」をそれぞれ下敷きにしていて、コナーたちは、既存の曲に感動すると、それに影響され過ぎの曲を作ってしまうクセがある…(笑)。

余談ながら、コナーたちの曲はどれもコード進行が凝っていて、お世辞抜きでオリジナルと遜色ない作りになっており、一体誰が実際に曲を書いたのかと調べてみると、デビュー曲「Mary’s Prayer(87年)」がヒットし注目を浴びたスコットランド出身の3人組バンド、ダニー・ウィルソンの中心人物ゲイリー・クラーク(!!)。

シンセポップでもない、ニューウェーブでも、ソウルでも、AORでもない、独特なバンド時代の作風は、当時スティーリー・ダンのフォロワー的に語られることが多く、劇中、コナーのバンドのデモテープを聴いたブレンダンがそのダメぶりにキレて「お前はスティーリー・ダン気取りか?」と怒鳴りつけるのは、ゲイリー・クラークをイジった楽屋オチ、ジョークなのである…(笑)。

閑話休題…

本作「シング・ストリート」の劇中歌は、コナーたちが作った映画オリジナル曲と、実際に80年代の音楽シーンを賑わせたヒット曲の2種類に分かれている。

どれも心に響く名曲揃いなのだが、既成曲の中でアーティストの演奏するバージョンは流れないのに、とりわけ印象に残る楽曲が一つある。

序盤、ラフィーナをガールフレンドにしたいために、偽って、自分のバンドのPVに出演しないかと口説くコナー。
当然、ラフィーナから「バンド? 楽器は何を担当しているの?」と尋ねられ、今度は「ボーカル担当」と嘘の上塗り。

もちろんこれで終わるワケなく「じゃあ、私の前で歌ってみてよ!何千人のお客さんの前で歌えるんだから出来るでしょ!」とドンドン追い詰められる。

そんな嘘が破綻しそうになったギリギリのところで、冷や汗垂らしながらコナーが歌うのが、a-haの「Take on Me(84年)」。

「♪〜ボクを受け入れて〜♪」
これは、コナーの照れ隠しながらの“愛の告白”だ。

「Take on Me」は再び中盤に差し掛かった頃、下校時、ラフィーナが身を寄せる児童養護施設に向かう途中、コナーが彼女とマジ話をする場面で、ピアノによる、静かで淋しげなインストゥルメンタルとして聴こえてくる。

「今度は楽しい曲を作ってね」と話すラフィーナ。
それを訝しく思い、「ボクが不幸に見えるかい?」と聞き返すコナー。

ラフィーナから見たコナーは、本気の恋をするには、まだまだ甘ちゃんに思えるのだろう。
このシーンでは実際に聴こえてこないが、「Take on Me」の2番の歌詞はこうだ。

「♪〜言うまでもなく ボクは半端者さ/でもボクはつまずきながら ゆっくりと学んでる/人生はこれでいいんだって/ボクに続けて言ってみて/(中略)ボクを受け入れて/ボクを受け入れて〜♪」

両親のこと、学校のことで胸の中に出来たモヤモヤを歌で解消したり、自分の元カレに嫉妬する、やや了見が狭いコナーを、ラフィーナは、もどかしく感じたのかもしれない。

実のところ、ラフィーナの過去は哀しみに暮れている。母親は躁うつ病から入退院を繰り返した末に病死。それが原因で酒浸りになった父親は数年前、自動車事故で亡くなっている…。

生前の父は、病に臥す母親以上に自分に愛情を注いでくれたのに、ラフィーナはその愛を素直に受け入れることが出来なかったことを、今更ながら後悔している。

こんな過去の経験から、愛を受け入れることの難しさを、コナーは未だ分かっていないと、「“Happy Sad”を知って…。それが愛よ。喜びと悲しみは一緒なの」と告げ、その場から去っていく。

“Happy Sad”なんて全くわからない、恋にも人生にも甘ちゃんなコナーは自宅に戻り、なんとか理解しようとメンターであるブレンダンにご指導を仰ぐ。

「悲しみの中にも幸せを見つけることさ…」と諭したブレンダンから、その絶好の教材として渡されたレコードが、ザ・キュアーの「In Between Days(85年)」。

「♪〜昨日一日で すっかり寿命が縮まった/まるで生きた心地がしなかった/泣き出したい気分さ/行きなよ 行きなよ/立ち去るがいいさ〜♪」

この曲は、恋人に浮気がバレた男の歌で、そんな男の表向きの強がりが前半部、弱音や本音を曝け出した部分が歌詞の後半部に綴られている。

「♪〜昨日はすっかり怯えて/子供みたいにガタガタ震えてた/昨日 君と別れて/心の奥まで冷え切ってしまったよ/戻ってきて 戻ってきてよ/行かないで/戻ってきて 戻ってきてよ/僕のもとへ〜♪」

当然、翌日コナーは、これまでのニュー・ロマ風から、ザ・キュアーのボーカル、ロバート・スミスそっくりに髪をおっ立て、ゴス系チックに変身して登校。

そして、エイモンに「ボクは今日からポップ・ミュージックを卒業さ!」と高らかに宣言するのだ(!?)

(注:たしかに当時のニュー・ロマは、複雑な恋愛観を歌ったものより、能天気か、内向的でデカダン風味の曲が多かった気がする…笑)

あと…コナーたちの自作曲じゃない、映画オリジナルの歌が1曲ある。
それが、アダム・レヴィーンの「Go Now」。

夢を追いかける楽しさや困難、人生を全力で生きることの大切さが語られている歌で、劇中の若者たちだけではなく、観ている自分のようなオッサンにも聴いてて勇気を与えてくれる。

「♪〜キミはここまで生きてきた/今 すべてを断つ/それでいいんだ 行こう!命をかけて/この決心を翻したら 何もかも崩れさる/定めたゴールに突き進め!それが全てだ/戦い続けろ!真実を知るために/進み続けよう!力を尽くして/今でなければ いつ行く?/探さないで 何が分かる?/決して後ろを振り向くな!/今でなければいつ成長する?〜♪」

この曲は終盤のワンシーン、兄ブレンダンが弟コナーに与えた言葉が元となっている。

「歌詞を書いたんだ、お前に渡しとく。
 ある男女の未来の話だ。いつか曲をつけてくれ、オレの代わりに…」

それは兄の視点から書かれた、コナーとラフィーナの未来であり、ミュージシャンになりたかったブレンダンの夢=“歌詞”と、その夢を託された弟コナーが作った“メロディー”の融合と云えるだろう。

この曲が、これまで劇中、散々流れてきた80年代テイストと異なり、90年代のようなサウンドに感じるのは、多分そういう意図なのだと思う。

監督のジョン・カーニーは、このエンディング曲がこれまでのトーンと異なる理由について、こう答えている。

「劇中の舞台である80年代の誰かが歌っているようにしたくなかった。だからコナーを演じたフェルディアに敢えて歌わせていない。今のコナーではなく、数年後のコナーが歌っているような…。コナーとブレンダン、二人の未来が投影されたものにしたかったんだ」


最後に、ネタバレで大変恐縮だが…

日本での劇場初公開時、本作「シング・ストリート 未来へのうた」のラストシーンが、アメリカン・ニューシネマの代表作「卒業(67年)」を思わせると、多くの映画ライターが宣っていらっしゃったが…あくまでも個人的にだが、自分はそれに対してハッキリと「No!」と言いたい。

たしかに、60年代末の公開当時、カウンター・カルチャー真っ只中の観客、多くの若者たちは、結婚式をブチ壊し、満面の笑みを浮かべて走るダスティン・ホフマンとウェデイング・ドレスのキャサリン・ロスに、拳を振り上げて声援を送っただろう。

しかし、そのわずか数分後、追っ手から逃げ切ってバスの後部席に座るダスティン・ホフマンは、ガラリと変わり厳しい表情で前方を見つめている。 
それを眺め見たキャサリン・ロスの顔からも笑みがスーッと消え、同じように険しい表情でカメラに向き直る。
二人は自由を得た代償として、今後は頼る宛も信じられるものもいない現実、その不安を実感しているのだ。

しかし、コナーとラフィーナは、「卒業」の二人と違い、見えない明日なんて恐れていない。

とある決心をしたコナーの表情は、未来を切り拓いていく力強さに満ち溢れている。

そして、本作のメッセージが何か教えてくれるのだ。

「Go Now」…いま、動け!

80年代を舞台にした本作は観ていて懐かしさを感じるが、ノスタルジーを味わう映画ではない。
そして「卒業」というよりも、21世紀に甦った「小さな恋のメロディ(71年)」と云えるかもしれない。

トロッコに変わって、コナーたちはボートで未来を目指すのだ…。

本作「シング・ストリート 未来へのうた」で描かれているのは、大不況や家庭環境で苦境に強いられた少年が、未来のために全力で走り続ける青春ドラマだ。

恋をすること。
心通じた仲間と一緒に、何かに夢中になること。
それらは、将来が見えない、今、そして生活を変えるエッセンスだ。

それに対して、どれだけ真剣に向き合い、「叶えよう」と努力するかが、成功に繋がる重要なキーであると、本作は伝えているように思えてならない…。


但し、このラストシーンの後、続きが観たいのは、主人公のコナーより、兄貴ブレンダンの方だった…(爆)。