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恐山の女のokawaraのレビュー・感想・評価

恐山の女(1965年製作の映画)
4.7
父と息子たちが同じ女を愛するカラマーゾフ的因果は、(同作のごとく)父と長男の場合においてとりわけ凌辱性を帯びていることと、なによりもそれを導く淫らな身体の振る舞いに注目したい。それはすなわち、画面外の女をフレームの内側へ勢いよく引きずりこむ父と、女を捉えた画面の外側から鋭く手を挿しこむ長男それぞれの凌辱行為であり、銃後の世界で男たちが女(たち)に向ける帝国主義(父による)と領域侵犯(長男による)にほかならない。次男の場合には(女を押し倒そうとしたものの)そうした凌辱性はひとまず見受けられず、彼をアリョーシャ的人物と断定することは保留するが、ゆえに彼らの純愛が際だつものだとはいえるだろうと思う。
物語結部の山伏たちによる除霊が、父と長男の家父長的精神を併せ持つ行為であることはいうまでもなく(ここでも女を画面に「引きこむ」ことと女の画面に「挿しこむ」ことが繰り返される)、その喜劇と見紛うほどの滑稽さよりも、あらかじめ告げられた悲劇性にこそ心が動いた。だから命を落とす直前、女が屹立した山を目にしたとき、私はほとんど涙が出そうになった。
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