かなり悪いオヤジ

ドイツ零年のかなり悪いオヤジのレビュー・感想・評価

ドイツ零年(1948年製作の映画)
4.0
同じ年(1948年)に公開されたフレッド・ジンネマン監督『山河遥かなり』とは好対照な作品である。モンティ演じる心優しいアメリカ人兵士が戦後失語症に陥った少年の心を開いていく一種のプロパガンダ作品である。連合軍の爆撃により焦土と化した同じベルリンを舞台にしながら、ロッセリーニの戦争三部作最後を飾る本作は、もっとリアルで荒んでいている、ヒューマニズムの欠片も感じられない1本だ。

私は、この映画を観ながら小津安二郎が戦後撮った邦画を思い出していたのだが、本作をご覧になった皆さんはどんな感想をもたれたのだろうか。本作に出てくる戦車砲で壁が崩れおちたアパートや、空爆で天井の抜けた教会などは、(敗戦直後の作品にも関わらず)小津の映画には一切登場しない。むしろ、観客が感じないではいられないその“違和感”が映画全編を通奏低音のように貫いているのである。

病気で寝たきりの父さんやナチ残党発覚を怖れ同じアパートに隠れ住んでいる兄貴に代わって、家計を少しでも楽にしようと瓦礫と化したベルリンの街を奔走するエドモンド少年。その“違和感”は、このエドモンドが関わる戦争で生き残ったドイツ人たちによって増幅される。ナチスドイツによるファシズム支配が終わりを告げた後流れ込んできた“新自由主義”的思想によって、ドイツ人の精神はどのように変化したのか。ロッセリーニはエドモンド少年を通して、それを怜悧な眼差しで見つめている。

家事を切り盛りする姉さんは、フランス人や英米人の将校がたむろするクラブで、ほんの“お楽しみ”程度の小遣い稼ぎ。そこには溝口健二が描く女郎のような切羽詰まった感じはまったくない。戦争孤児たちは詐欺紛いの行為で大人たちから小銭を巻き上げ、エドモンドの恩師も幼児性愛の将校に児童を斡旋したり、アメリカ駐留軍にヒットラーの演説を録音したレコードを聞かせる闇商売で糊口をしのいだりしている。

「明日、父が退院します。でも、食べさせる物がありません。父のために何をしたらいいでしょうか」
「苦しい時に情けは無用なんだ。生存競争さ。パパでも同じだよ。弱い者は強い者に滅ぼされる。弱い者は犠牲にする勇気が必要だ。そして、生き延びるんだよ」
先生の助言をナチズムと勘違いされている方もいらっしゃるようだが、アメリカがドイツに持ち込んだ“自由競争”の原理そのものといってもよいだろう。

そしてエドモンドは先生の教えどおり、父親が入院した病院で手に入れた劇薬によって寝たきりの父親=神を毒殺するのである。良心の呵責に耐えきれなかったエドモンド少年は、ドイツの将来に絶望しながら投身自殺を図るのだ。この映画は(当然のことながら)アメリカ市場では大ゴケしたらしいが、キリスト教的左翼精神の伝道師ロッセリーニにしては大変分かりやすいストーリーになっている。エドモンド少年が体言していた“弱者救済の精神”を、敗戦を契機に(日本人と同様)ドイツ人も失っていたのかもしれない。