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マイ・フェア・レディのnt708のネタバレレビュー・内容・結末

マイ・フェア・レディ(1964年製作の映画)
1.8

このレビューはネタバレを含みます

本作もご多分に漏れず、オードリーヘップバーンの美しさで押し切ったゆえに名作となりえた「迷作」のひとつである。この程度のクオリティの映画がアカデミー賞を受賞してしまうなど異常としか思えない。

何より納得がいかないのは、ヒギンズとイライザが結ばれた結末である。あの物語の展開からして最もありえない、あってはならない締めくくり方をしてしまった。作品にとって必然性のない展開をわざとらしくFinaleに持ってくる本作を愚作と言わずしてなんと言うのか(ちなみに原作が映画と異なる結末を迎えることは百も承知である)。

本作が描こうとしている階級格差と男女格差はどちらも描き方が上から目線で虫唾が走る。例えば、中産階級になったイライザの父がお金がない頃はもっと自由で楽しかったと言っている。確かにそのような立場の人間がそう考えることは十分に考えられるが、本当にお金がない生活は自由で楽しかったのだろうか。それはお金を持つ者の視点から見た持たざる者の所感であり、彼らの嫉妬心あるいはエゴにすぎないのではないだろうか。さらに、本作における男女の描き方は度が過ぎるほどにアンフェアだ。ヒギンズが散々女性のことを貶しておいて、イライザが男性のことを貶すことは一切ない。ヒギンズが自らの発言を弁明することももちろん一切ない。にもかからず、ふたりは結ばれる。こんな頓珍漢な結末があってよいのだろうか。いくら映画であるとはいえ、こういった作品の態度は、作者個人が根本に抱えている価値観に由来するため、彼らが格差に対してこのように向き合っていることの態度の表れでもある。本作品を評価する者たちもしかり。社会に対してこんな斜に構えた人間が映画を作ってきたなんて考えるだけで怒りを通り越して、悲しくなってくる、、

物語がダメならせめて構成だけでも、、と思ったがこれまた微妙。ひとつひとつの曲が必要以上に長く、退屈である。レトリックを使った歌詞遊びはまさにシェイクスピアを思い出させる演出で面白かったが、いかんせん過度なリフレインが曲を楽しむ邪魔をする。言葉の面白さ、重要さをも描こうとしていた本作としては大失敗の演出だろう。否、言葉よりも態度(優しさ)で示してほしいと言っていたことを考えると、言葉の煩わしさを遺憾なく伝えている点で大成功の演出とも言えるだろうか。これは皮肉でも何でもなく、とにかくわけがわからないのだ。他にも気になる点を挙げればきりがないが、虚しさが増すだけなのでこの辺でやめておく。

やはりオードリーヘップバーンは偉大過ぎた。作品が良くなくても、ここまでの名作に仕立て上げてしまうのだから恐ろしい。最後に本作で唯一良かったと思えた台詞を記録用に書き記しておこうと思う(何とか記憶の中から掘り起こしている状態なのでシナリオと全く同じではないかもしれないが、ニュアンスは間違っていないはず)。

--- the difference between a lady and a flower girl is not how you behave but how you are treated ---

やはり人は他者がいてこそ成り立つものである。自分がどう考えようと結局自分に対する評価を下すのは他者のほかにない。その重要性を再認識させてくれたという点で唯一頭に残っている台詞となった。ヒギンズとは真逆のこの立場に軸を置いてキャラクターを設定し、物語を展開しなおせば、より良い別の見え方になりそうだったゆえに、本作がこのようになってしまったのはやはり残念である。
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