亘

ビフォア・ザ・レインの亘のレビュー・感想・評価

ビフォア・ザ・レイン(1994年製作の映画)
4.0
【止まない雨】
マケドニア(現・北マケドニア)の修道院。沈黙の行を続ける若い修道士キリルの元にアルバニア人の少女ザミラが逃げてくる。ロンドンでは北マケドニア人の写真家アレックスが愛人アンに北マケドニア移住を勧め、そのアレックスが地元に帰るとアルバニア系住民で幼馴染の女性ハナから娘を助けてほしいとお願いされる。この3つのストーリーはそれぞれ悲しみによりリンクするのであった。

旧ユーゴスラビアの北マケドニアにおけるキリスト教徒の多いマケドニア人とイスラム教徒の多いアルバニア人の民族対立をテーマに描いた作品。3つのストーリーから描かれるが、「メビウスの輪」ともいわれるようにそれぞれのストーリーが絡み合い繰り返す構成は巧妙。おそらくこれは”悲しみ・憎しみは繰り返す”というメッセージなのだろう。3つのストーリーとも悲劇を含み、それが終わるわけではなくて繰り返してしまう。宗教・民族紛争における対立の虚しさを示しているのだろう。

そして本作のタイトルの「レイン」もまた悲しみ・悲劇を表しているのだろう。それぞれのストーリーは登場人物たちの交流を描き、悲劇で終わる。つまり『ビフォア・ザ・レイン』とは”悲劇に至るまでの(わずかなヒューマニティ)話”ということなのだろう。

1. 言語
北マケドニアの修道院。葬式が執り行われて1人の女性が見守っている側をアルバニア人少女ザミラが修道院に逃げ込む。若い修道士キリルはザミラを必死にかくまい食料も与えるが、住民や修道士たちはアルバニア人の少女を異教徒として必死に捜索して追い出そうとする。ついに少女の存在がバレるとキリルはザミラと共に追い出されてしまう。しかしその後2人が丘を越えようとするとザミラの親たちが現れて口論の末にザミラを殺してしまう。そしてキリルは彼女を抱きしめるのであった。

本作でも最も構図のわかりやすいパート。修道院でまさにキリスト教色の強い地域にイスラム教徒のアルバニア人少女が逃げ込む。地域住民はもちろんザミラに否定的だが、修道士たちでさえ殺しはしないものの少女をかくまおうとしないところに対立の根深さを感じる。そしてザミラが善人に出会えたにもかかわらず同胞のアルバニア人に殺されてしまうのもまたこのパートの闇の部分。すべてを敵か味方かでしか見られていないのだ。キリルは唯一の光だった。

2. 顔
ロンドンの雑誌社。夫ニックとの離婚を考え始めた編集者アンは、愛人の北マケドニア人写真家アレックスから北マケドニアへの移住を提案されていた。アレックスから移住の決断を迫られるも即答できなかった彼女は、その夜夫ニックとレストランで話をしようとする。しかしその場で東欧系男性による無差別殺人が発生。夫ニックは殺されてしまうのだった。

本作の中で唯一マケドニア以外が舞台で、あまり民族対立の色を感じないパート。もしかしたらつなぎのようなパートなのかもしれない。1つ目のパートとのつながりでいえば、アンがザミラの亡骸を抱くキリルの写真を見ていること。そのほかにはあまりつながりを感じないように思う。そしてユーゴスラビアとのつながりも、アレックスの話とラストのレストランだろう。レストランの事件も詳細は不明で、東欧系の男性がウェイターとトラブルになり追い出される。その男性がマケドニア系なのかアルバニア系なのかもわからないが用紙や言葉からユーゴ系と想定されるだけ。とはいえバルカン半島での対立が遠くロンドンでも発生するという対立の根深さ・深刻さを表しているのだろう。

3. 写真
北マケドニアの田舎町。ロンドンから16年ぶりに帰郷したアレックスは地元住民から歓迎される。しかし幼馴染でかつて気になっていたアルバニア系住民ハナの元を訪れようとすると周辺住民からは良い顔をされない。何とか会うも白々しい感じだった。アレックスの感じた違和感はとある事件でより鮮明になる。友人ボヤンが殺されアルバニア人少女が犯人として町を挙げた捜索が始まるのだ。さらにそれがハナの娘と判明するとアレックスは娘の救出に挑む。しかし少女を逃がそうとしたとき、少女を狙った地元住民に撃たれてアレックスは亡くなるのであった。そして少女は1つ目のパートの修道院へと逃げこみ、そのわきではキリルがいるのであった。

本作の中でも人々の思いが複雑に絡み、また本作のポイントである”メビウスの輪"が明らかになるパート。アレックスは対立をフラットな目で見られているように見える。おそらくロンドン暮らしを経てリベラルな考え方を身に着けたのだろう。アルバニア系住民ハナとの間はアレックスゆえである。そしてボヤン殺しから宗教・民族でしか相手を見られない住民とアレックスの溝が生まれる。アレックスが同胞のマケドニア人から殺されるのは1つ目のパートとつながる。民族の対立はその周縁部にまで犠牲者を出してしまうのだ。

その後少女が修道院に逃げるシーンでいよいよ本作が"メビウスの輪"であることが判明する。少女は逃げ出せたものの、その後[1. 言語]として結局殺されてしまうのが観客から見えているからこそ観客は虚しい気分になってしまう。もしかしたらザミラが走るわきで起こる葬式はアレックスの葬式で、それを遠目に見る女性はアンなのかもしれない。そうしたパラレルワールドとも取れつつストーリーはつながり続ける。そうした意味で本作は単なる循環ではなく、歪みながら裏表なく延々と続く"メビウスの輪"なのだ。そして民族対立の悲劇もずっと終わらないのだろう。

印象に残ったシーン:ザミラが修道院に逃げ込むラストシーン。
亘