垂直落下式サミング

ヤコペッティのさらばアフリカの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

5.0
ドキュメンタリーは事実を現実通りありのままに映像で人に伝えるものだと、そんな素朴な俗論がある。いや、むしろそれが昔から今をつらぬく「記録映像」とされるものの定説であり、これもまた呪いなのだと思う。
「事実」あるいは「真実」とはなにか、「ありのまま」とはなにか、それを一つ一つ厳密に突き詰めれて考えれば、そこで起こったことのありのままを、当事者でないものに本質を欠け落ちることなく伝えるなどと言う芸当は絶対に不可能だと、そんな当たり前に辿り着くはずだ。
「事実」とは、所詮あることがらを目撃、あるいは体験し、それから刺激を受け取った人間が、個人の立場と主観から自ら内部にイメージを形成してゆくものであり、情報がイデオロギーや主義主張を透過していくうちに、そのかたちは「現象」から遠退いていってしまう。
ある場所で記録された事象が、マスメディアによってレポートというかたちをとって第三者の目に触れるまでには、幾重もの段階がある。ふだん我々が目にしている報道とは、誰かの視点、誰かの立場、誰かの意見、誰かの論法、それら編集作業の合間に、他人の主観が入り込んだものだ。
つまりは、人間は公平にまんべんなくすべてをフラットな視点で中立に客観視できるはずだという常識論は甚だ達成不可能な命題であり、そうあるべきなどと理想を声高に宣ってはばからないのは奢りでしかない。
そこまでわかっていながら、そうだとしても、報道とは中立であるべきだという無理難題から足が抜けないのである。
そんなことを承知の上で、ヤコペッティは本作を「さらばアフリカ」と銘打った。文明社会の窓辺から、人類の起源とされていた神秘のアフリカ大陸への別れをうたいあげたのである。
今までは、部族というごく小さなコミュニティで生活していた人々が、文明の渡来によって一足飛びに発達し、強引に国へとまとめあげられていくなかで、これまでの観念がひっくり返されてしまう。そういった経緯から、アンゴラ紛争、ザンジバル島でのアラブ人虐殺行為など、報復の連鎖が次々と引き起こされたようだ。
かつてあった伝統様式が破壊され、動乱の時代に突入したアフリカ大陸。破壊を受け入れたとき、不条理に納得したとき、人とは思考することを停止する。そういう本質的なところが、欺瞞なしによく表れている。
現地調達の資料的映像が盛り沢山のアフリカ見聞録は、人間の遺体や動物の死骸をそのままカメラに収める。映像とは事象を伝える手段でしかない。そう割り切ってしまうのがヤコペッテイ。
伝わるのは、未開の地を覗き込むときめきと、足元に滴る血泥水の匂いと、若干の胡散臭さと。