R

ファイト・クラブのRのネタバレレビュー・内容・結末

ファイト・クラブ(1999年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

自分ってなんだ?人生ってなんだ?ってなる。自己否定から社会憎悪へ繋がるのヒヤヒヤしながら観た。考えや行動って環境からの影響が大きいと思うんだけど、適応していた自分に不具合が生じたときどうするのかが永遠の課題。消費主義と男性性についての映画だけど、自分が二重人格になったらどんな性格をそれぞれ持つんだろうと考えると面白い。表はルッキズムで裏はアンチルッキズムとかかな?表はマキシシズムで裏ミニマリズムとかも…。相反する価値観の狭間でもがき苦しみ続けるのも己の人生…?思い切れないのが本音。

資本主義、物質、消費主義を否定する映画だと思って見始めたら、私ってなに?人生って何?って話なの?ってなった

わたしが意識とか心とか目に見えないところに興味がある人間なので、最近読んだ哲学だったり心理学だったりに書いてあることとリンクして、わ〜って感じだったんだけど、結局人間の興味のある部分にしか反応できないからそういう話だと思ってしまったんだが、違うのかな

こう、自分の信念と同じようなものを見たり聞いたりすると信念は強まるけど、

(この場合、やっぱ自分って自分じゃないっぽくな〜い?やっぱ物質主義ってくそじゃなぁい?という…)

信念=真理とは違くてガックリきちゃう

生きる意味とはなにかとか
人間とは何かとか
どうか生きるべきかとか

そういうことを知りたくて本やら映画やらを見聞きするけど、そこにあることが真実ではなく、ただの価値観で、、

でも重ねれば重ねるほどそれが正しいような気がして、

自分の求める真理からともすれば遠ざかってしまうのが難儀だなぁと

最近の自分の議題で言えば
欲のままに生きる?それとも徳を積むべく生きる?

で、どっちの価値観も流布しているし、
どっちかを選んだとしても、
その欲望は本物?本当に欲を満たせる?満たすことに意味はある?意味とは???
徳を積むって何?徳ってなに?それは本当に誰かの、わたしのためになっている?誰か(自分の場合も)を犠牲にしてない?

と自問自答の堂々巡りで、

拳銃向けられて、死が目前に迫って「本当はなにをしたいんだ?」と尋ねられても、主人公みたく本当になにも出てこないかもしれない

いまごちゃついてる部分についての映画だったので、感想もごちゃついちゃう

でもやっぱ映画やら本やらは考えるきっかけになるから定期的に寄らなきゃいけないなという

主人公=人生をコントロールしようとあくせくする思考
タイラー=自由意志なんて存在しないただ起こり続ける人生、コントロール不可

進撃の巨人もマルクスガブリエルも自由意志あるって言ってるよね、わたしもあんじゃん?と思うし、なかったらまじなんもやる気が起きない、同じ人生でもあると思ったほうが生きがいあるっしょ…

てかこんだけあらゆる知識人っぽい人たちが資本主義、物質主義を非難しているが、抜け出すのは無理じゃないかと思うほど、わたしはズブズブ。資本主義を世界から抹殺するのは無理だけど、抜け出すことは個人でならできると思う派なんだが、わたしはむりかな

てか主人公の名前がエンドロールで
「narrator」になってるのは
人が世界をありのままで見てるのではなく、解釈して語ってる…つまり見えてることは客観的な真実ではなく、主観的な解釈ってこと?…とはちがう?…自分の考えに寄せすぎ?マルクスガブリエルも世界は存在しないって言ってますし(マルクスガブリエルの良くないところは本の目次がブログタイトルみたいで内容がわかりにくいところ)

近しい解釈さいと

http://www.kabasawa.jp/eiga/other_films/pics/fightclub/fightclub_perfect.htm

⤴︎ホテルでタイラーが自分だって知るシーンが入ってるとなお良いよ。理想と思ってる自分も自分だってそれな〜したから
でもって嫌いなあなた(マーラ)も自分でほんとそれな^_^最後にマーラと通じ合ったの自分の嫌な部分を受け入れたって解釈すき♡♡♡あとタイラー撃ち殺せたのは自動運行人生に自由意志が勝ったということにしたい

小説読んだらもっと理解できるんだろうな
男性性についてはよくわからないという…

あんま高評価してないくせに、消費社会について考えちゃう。かわい〜大好きなモデルやアイドルは商品や価値観を売るための広告塔だのに、prするインスタグラマーは非難する妙。後者のprグッズが効果ないし金を楽して得てるというのが非難の理由だが、前者が推すナイスバディやオシャレってそもそも効果があっても意味はあるの?という…

とはいえわたしもその価値観の中にズブズブだし、それ以上に価値があるのもを自信を持って提供できない(もちろんその考えはあるけど)

大学生のとき外見で色々判断する/されることに嫌気がさして、すっぴんねぐせビーサンで生活してたけど、女子社会に生きてたから自分の異物さに自分が苦しくなってしまうという。完全に抜け切ることは、果たしてできるのでしょうか?

カラマーゾフの兄弟のアリョーシャが「修道院にいるのは私が弱いことを認めているからです」的なことを言っていて、(社会の中にあっては欲に負けるという自分自身の弱さを深く自覚しているので、無菌状態の修道院のなかで清潔に生きることを選ぶ)

いまの考え方のまま消費社会snsの承認欲から逃れて田舎に逃げるのは負けでルサンチマン募らせるだけだと思うから、消費社会のなかにいてそれに打ち勝つのがゴールというわたしの意地。でも負けるかもしれないし、行ったり来たり矛盾を抱えて生きるのもまた人間でしょという寛容さ甘え諦めを胸に今日も生きて、いくのかも

日々自己探求。わたしという人間を知れば知るほどとけていって、特別ほしいものが、なくなっちゃった。でもあの子に振り向いて欲しいという気持ちだけが残ってて、そのためだったらなんだってやるし、そのためにしかやる意義を見出せない。あなたがなにに惹かれるのか、わたしは臆病で聞くことができないから、お金も地位も名誉も魅力も人間性も持って迎えに行きます(聞いた方が早い)

てか小説読んだけど、映画の方が分かりやすかったし、おもしろかった。訳の問題かな?小説からは自分とは?物質主義の是非より、男性性の問題を色濃く感じた
R

R