さいとぅおんぶりー

ストーカーのさいとぅおんぶりーのレビュー・感想・評価

ストーカー(1979年製作の映画)
5.0
路傍のピクニック(ストーカー)読了済み。
映画と原作の最大の違いはタルコフスキーの神学的要素が大きい。

ゾーンとは恐らくロシア正教の聖堂(ソボール)だろう、そして願いを叶えるとは精神的一体感(ソボールノスチ)であり、ストーカー(聖愚者•キリスト)が命を賭して聖堂に案内するが2人は懺悔を前にして自身の魂の軛と向き合う事を恐れ殉教者になる事から逃げ出してしまう。

自らの魂と向き合えない彼らは、自らの抱える「分かってもらえない魂」への理解を深める事はなく、他者に対して「分かってもらう」言葉を獲得する事も出来ない、当然の帰結として問題は解決されず周囲との関係においても「隔たり」は解消される事はなくその妥協点・共生の可能性も見いだす事も出来ない、その人類のありように絶望するストーカーの視点がここで描かれていた。

映画ラスト10分に突然妻がカメラ(観客)に向かって結婚観について語る独白はソ連とロシア人の関係性に準えていて「苦しみのない人生なんて虚しいものです、苦しみの無い所には幸せもない」という深い自問と嘆きはロシア人の価値観の根底にあり、自己の力ではどうしようもない現実に対して半ば諦めの「受け身の魂」で過酷な現実に耐えて生きてきたロシア史観の現れでもある(強権独裁や帝政の圧政•過酷な自然環境•隣接する国家間の争い)
そこからロシア人は神とキリストの中に限りない従順と自己否定の狭間で隷従や服従によって救われるという考え(ケノーシス)に至った背景がある。

ゾーン(聖堂)から連れ帰った犬が齎した祝福は無垢なる物だけが真理の獲得に至るタルコフスキーなりの一縷の希望または祈りとして受け止めました。
映像美が語られる事の多いタルコフスキー作品ではあるが、殆ど音楽がないこの作品でエドゥアルド•アルテミエフの作曲が物語りをより静謐で美しい物としていた。

5回観てもまだ面白い非接触型SFの最高傑作。