映画『エスター』が思い出された。
さて、中盤のエレベーターが落下するシーンなど所々で見られる悪魔のビジュアル化は不要だと思う。
この映画から感じられる恐怖の正体は生身の人間に潜む悪だ。
それこそが悪魔なのだ。
美しい容姿。誰もがその姿を好意的に捉える。そして人間関係は好意から始まる。
彼女の周りにはいつも友人がいて、称賛は彼女の元に集まる。何をしても輝いて、何をしなくとも誰かが彼女の手となり足となる。
彼女は例えば学生時代の集合写真で決まって中央にいるような人物だ。学芸会では主役を務める。誰もが彼女が適任だとし、彼女も悪意なくそれが当然だと受け入れる。間違っても村人Aが配役されることはない。
恐ろしいのは、彼女に悪意があろうとなかろうと、結果的に周囲が不幸になることだ。
人は誰でも幸せを求める。
その幸せのカタチには、自らが集合写真の中央で写るとか、学芸会で主役を務めるとか、色々なものがある。しかし、彼女はどのような幸せのカタチもさらってしまう。悪意がなかろうともだ。それが恐ろしい。
人を助けるために自らの何かを犠牲にする。
その行為に、彼女はありがとうと言う。
困っている彼女の助けになれたというのならば、犠牲にした自分事など大した問題にはならないと思う。しかし、それが彼女の思惑であったなら?
ところどころでリリーに潜む悪魔の姿が表出化する。
もう一度書く。そんな描写は不要だ。
美しい容姿を持つ10歳の少女のサイコパスこそ、どんな醜い悪魔の姿を見せられるよりも恐ろしいものなのだ。