KnightsofOdessa

David Holzman's DiaryのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

David Holzman's Diary(1967年製作の映画)
4.0
No.480[虚構と現実の間に生まれた世界初のユーチューバー] 80点

こういう誰も見ていない作品に対するレビューを書くこと自体が私の非線形天邪鬼な心をくすぐる出来事である。ので、あまり私らしくもないが、楽しんで背景知識を調べていた。調べれば調べるほど(そんなに調べてないけど)、本作品の奥深さというか、言わんとする事を理解できるようになるのはやはり楽しい。残念ながらエンタメ性はクソほどもないから、映画自体は退屈だけど。

冒頭、主人公デヴィッド・ホルツマンは物、人、事象すべてに意味があるように見え、ゴダールの言う”映画とはなにか=1秒に24回の真実”を使ってそれらの意味を解明しようとする。しかし、その過程において恋人ペニーのヌードを無断で撮影した廉で別れを突きつけられ、向かいのマンションに暮らす”サンドラ”と名付けた女性について夢想し、ニューヨークの街にカメラを持って出掛ける。しかし、映画によって真実を得ようとするあまり、映画によって真実から遠ざけられ、最終的に機材を盗まれることで総てを見失う。何もなくなったホルツマンはポートレートのみになり、バートルビー症候群に陥り、映画は終わる。

世界初のフェイク・ドキュメンタリーと言われているが、本作品はドキュメンタリーに対する皮肉を突きつけている。60年代後半のドキュメンタリー界隈はジガ・ヴェルトフに始まった”キノ・プラウダ”に起源を持つ”シネマ・ヴェリテ”やそれがカナダやアメリカに渡って新たな手法となった”ダイレクト・シネマ”などの手法があった。前者はカメラや監督を意識させ、後者はカメラの存在を極力消すという違いがあるらしい。前者はクリス・マルケルなどパリ左岸派、後者はメイスルズ兄弟やペネベイカーなどがあげられる。マクブライドはこのシネマ・ヴェリテに関して強烈な皮肉をぶつけている。彼らの言う”真実”は前出の”1秒に24回の真実”であるが、本作品はフェイクであり、ホルツマンの真実は虚構でしか無い。

といっても全部がフェイクというわけでも無い。というのも街の情景や下の階の女はおそらくリアルだし、望遠で撮影しているサンドラの素が出るシーンもフェイクとリアルの間を揺れているシーンである。しかも、それ以前に”カメラで撮影している時点でリアルではない”とホルツマンの友人(?)は言い切る。現実と虚構で常に揺れ続ける本作品はシネマ・ヴェリテに対する皮肉を越えた、人間の人生に対する深い洞察=リアルのフェイク性、フェイクのリアル性を提示しているのかもしれない。

本作品は、自分に向けたカメラにベラベラ喋る男の映画であり、後のYouTuberを予見した映画なのかもしれない。私は彼らの美化された人生など興味が沸かないから見ないのだが、昨今の子どもたちの憧れらしい。まぁ、敷居が低いように見えて、普通の職業よりも大変だろうから頑張って。

先述の通り、エンタメ性は無いが、私の心は満たされた。たまにこういうことをするのは精神衛生上よろしい。
KnightsofOdessa

KnightsofOdessa