InsideoutdowneR

僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46のInsideoutdowneRのネタバレレビュー・内容・結末

4.6

このレビューはネタバレを含みます

まずこの映画を観て感じたのは、ドキュメンタリーとして秀逸な作りになっていることだった。アイドルグループのドキュメンタリー映画で作品としてのクオリティを求めるほど能天気ではないし、見る前は「過去の出来事の記録されている現場での興味深い映像を幾つか見れればいいかな。どうせ大事な所は見せずにうやむやにして、綺麗な結末にまとめるんだろうし。」くらいの気持ちだった。

そんな思いを簡単に覆したのが、冒頭に出てくる2019年東京ドーム公演開演前のステージ裏に平手が姿を表すシーンだった。虚ろな目と頼りない足取りで前に歩くのもままならず、最後にはしゃがみ込んでしまう。自分はその人物が平手だと認識するのに時間を要してしまった。衣装に見覚えがあったので、辛うじてなんとか映像の人物と平手を繋げる事が出来たくらいだ。

その姿は自分が実際に東京ドームで見た姿やその公演のBlu-rayでの姿とあまりに乖離し過ぎていて、混乱してしまった。この状態からステージに現れたあの姿にまで持っていったのか…。考えの整理がつかないまま映画は進んでゆく。2018年ツアー時に平手がステージから落ちるシーン。その直前のパフォーマンスは誰が見ても自己を見失ってコントロール出来なくなっている事が分かるくらい激しいものだった。曲が終わり茫然自失のままステージから突然姿を消す。あの瞬間を映像でしっかり残しているのもスゴいし、この映画の象徴的なシーンでもある。

何故、平手がステージから落ちなければならなかったのか。十代半ばでグループの中心に据えられ、その環境に応える為、努力を続け表現力を増し、更に周囲からの期待が膨らんでゆく。その年齢でも世界で活躍するアーティストやアスリートは確かに居る。しかし、彼等との決定的な違いは幼い頃から積み上げてきた経験や技術が無いことである。ここ一番のギリギリの場面で自分を支えてくれるのは、地道に獲得してきたそういったひとつひとつである筈だ。彼女達にはそれらを持ち得ていない状態で、突然与えられた課題をクリアしながら、表現をする事を求められ続ける(もちろん周囲からすればレベルに合わせた要求を段階的にしていたとは思うが)。しかも、エンターテイメントという人の目に晒され続ける世界の中で。

経験や技術が無い中でそれに応えるには、自己の内面を削っても作品に入り込み感情の発露と身体を痛めるのも厭わない捨て身のパフォーマンスしかなかったのかもしれない。グループの中心に常に居るなら尚更だ。
欅坂の曲は自己との対話・葛藤などの誰もが持ち得る苦しみを表現している曲が多い。「倫理を通しての自己意識の認識と変容」と言い換えてもいいかもしれない。その様な普遍的な問いの中に自らの感情を投げ込むのは危険な事であるのと同時に、それを見せ物として多数の他人に提示しなくてはならない。加えてそれをしようとするのが、感受性が強くて精神的に脆い十代が中心のグループであり、その中心に平手は居た。

その作品が自分が作ったものではなく、プロの制作者達によって作られた他人の感情が乗ったものを与えられ表現しなければならないのであれば、自己と作品に登場する人物との境界が曖昧になってゆくのに拍車が掛かるのは当然の帰結のように思える。

東京ドームの公演の裏の楽屋で平手が次の曲に出て行く直前までずっと子供の様にギリギリの状態で頭を振って嫌がる姿は衝撃以外の何物でもなかったが、曲が始まる直前に腹を決めて出て行く姿を見れば、誰でも心も身体も保つ訳がないのが理解出来ると思う。

心の均衡は崩れ肉体は疲弊してゆく。その結果の象徴としてあのステージからの転落はある。映画本編を見る限りだと、他のメンバーは状況に翻弄され遠くから見守るしか出来なかったように描かれているように感じられるが、BD特典のOUTTAKEを見ると平手のそういった困難な状況の中でメンバー同士で奮い立たせ合い、なんとか乗り越えようとしている姿が映し出されている。平手も周りのメンバーに気を許している様子が窺える(2019年紅白のステージの直前・直後の様子は壮絶ですらある)。

欅坂後期のそういった難しい状況の中で、グループとして作品の制作には真摯であり続けたと思うし、それを引っ張っていたのは間違いなく平手の捨て身の表現だったのは間違いない。『黒い羊』は一つの到達点だった。楽曲・歌唱・MV・パフォーマンス全てが高いクオリティであり、この特殊で独自の経緯と形態のグループであったからこそ成り立ち、様々な人に届ける事が出来たはずだ。

劇中にも『黒い羊』のMV撮影シーンがあるが、最後のシーンのカットの声が掛かった後も、立ち上がらずにうずくまったままの平手にメンバーか駆け寄り泣き続けるその様子はMVの世界がそのまま続いているのか、現実の様子なのか見分けがつかない。その円の中でひとり立ったまま眺め茫然と立ち尽くす鈴本の姿が印象的だった。

そういった場面でもいち早く冷静さを取り戻し、他のメンバーに声を掛け立ち上がるように諭す菅井の姿が写っている。こういった表現をするグループの活動の中では、人によっては曲の情緒や感情に飲まれてしまい、それが伝搬して下手をすると集団催眠のような状態になりかねない(十代とかであれば尚更)。

ロングインタビューでも他のメンバーが語っていたが、菅井や齋藤がそういったメンバーを現実に繋ぎ止めてくれるバランサーとして機能しており、グループとして大事で必要な存在だったはずである。

外から見ていると、ひとつのグループとして捉えてしまって、意思も統一されているかのような印象を持ちがちだが、当然それぞれ感じ方や考え方も違う訳で、インタビュー内で小林が平手なしで公演を行う事になった際の別のメンバーとの物事の感じ方の違いを語る場面があるが、こういったグループ内の多様性をしっかりと見せているのもこの映画の意義のひとつでもある気がする。

2019年という年が東京ドームという象徴的な公演だけで語られて、直前の(平手なしの)アリーナツアーが語られないのは残念だ、と小林は言っていたが、個人的には全く同意で、あのアリーナ公演は非常にコンセプチュアルであり、多彩な心象風景を表現した演出やパフォーマンスは未だに強烈に印象に残っている(コンセプトが少し幼いのはメインの客層を考えると仕方がないかもしれない)。と同時にアイドルのコンサートという枠で収まる物ではないと興奮したのを覚えている(アメリカのスタジアム・アリーナレベルのアーティストの演出にも引けを取らないかも)。人数の多さを強みとして、個々の技術が足りない部分を補いながらも、それを感じさせない演出は素晴らしかったし、メンバーの気迫も十分感じられた。

同様に守屋が平手のバックダンサーの様になってしまっていると感じた過去の悩みや同時に平手への表現者としてのリスペクトを持っているからこそ出来た事などもしっかり語られている場面があり、一人一人のメンバーの個々の考えとして聞いているのも良かった。

当たり前の話だが、ここまで酷い状況になる前に何かしらの対策や対処を出来なかった周りの大人たちは非難されるべきで、商売や表現であろうと多数のこの年代の人間を扱うのであれば、メンタルに及ぶ部分まで配慮するのが当然であり、負荷の配分も出来ずにマネージメントとは言えない。この映画を作って、よく頑張ったというだけで終わらせては決していけない。

作品自体としては、時系列に囚われ過ぎず、多少時期が前後してもフェーズごとの伝えるテーマに合わせ映像が繋ぎ合わせられており、話が飛び飛びになったりゴチャゴチャになる事もなくスムーズに観る事が出来る。
インタビュー映像も非常に綺麗に撮られており、丁寧に作られているのが感じられる。当初、2020年4月に公開予定だったのが、コロナウイルスの影響で2020年の9月に変更されたことによって、当初の2019年12月、2020年2月のインタビューに加えて改名発表後の2020年の7月にも行われたインタビューも追加され、インタビューだけでも時系列が変化しており、作品をより多面的にしている。


勿論、この映画で語られている内容が全てではないだろうし、綺麗なところしか見せていないのかもしれない。人によっては実際は全然違うと言うのかもしれない(この辺りは全てのドキュメンタリーに言える事だが)。それでも、映画としての見せ方や構成はしっかり作られているし、人の目を惹き付ける力はあるのではないかと思う。少なくとも出来事に対しての視点の持ち方やその多様さについて思いを巡らさせられる作品であると感じた。
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