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ボーはおそれているの傘籤のレビュー・感想・評価

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
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つまりこの映画はある種のパラノイア(偏執狂)についてのお話なのだ。この映画の虚実がわかりづらいのは、パラノイアであるボーの精神内での出来事——ボーにとって現実として見えている景色を画面にそのまま映し出していることと、その上で母親のボーに対する異常な執着が生み出した「不愉快版トゥルーマン・ショー」的な、制御された、これまた異常な現実が同時に画面で起きていることが原因だろう。それはファーストセクションにおけるボーの住んでいる街からずっとそうで、この野蛮で世紀末すぎる場所は、ある程度現実でもあり、ボーによる誇張された現実でもあることを意味している。ほら、ハリウッドザコシショウが誇張モノマネをやってるでしょ。あれを思い浮かべてもらえばわかりやすいはず(むしろわかりにくくする例)。そんな風に考えると、あの屋根裏部屋にいた巨大なペニスのかたちをしたモンスターなんかも、おそらくはボーから見た誇張された現実なのだろうなと想像できる。

水、天井裏、セックス。ボーはいろんなものをおそれていて、それは母親からの溺れ死んでしまうかと思うほど重度の愛情によって、意思を支配されているからだろう。そしてそれが彼の根源的な恐怖ともなっている。自分で何らかの意思決定することができないボーは大人の身体を持ちながら、精神的には思春期の子供のままだ。「逆コナン」、いや、「逆哀れなるものたち」状態。主演のホアキン・フェニックスはそんな繊細で、世界そのものに恐怖するボーを見事に演じていた。やっぱりこの俳優はこういう繊細な役がよく似合う。

三作目にしてもはや分類することが困難なこんな作品を作ってしまい、監督は次にどこへ向かうのだろう。ラディカルでありながら、ボーの人生にある種の"親密さ"を覚え、笑いと絶望感が同居する、そんな映画。
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