あなぐらむ

オッペンハイマーのあなぐらむのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.7
ユナイテッド・シネマとしまえんのIMAX上映で鑑賞。久々のとしまえん、いい映画館だよローカルな感じで。

監督自らあちこちで何度も言ってるように、これは「大きな画面で」「映画館で」観る事を前提に作られた映画だ。それなのに映画自体は、マクロ的カメラアイやクローズアップを多用した極めてスタティックな作りになっており、所謂「動き」が圧倒的に少ない。寝落ち誘引映画になっている。それでもこれは大きな画面の映画館で見るべき映画である。観る者を画面のこちら側に置いておかない映画だからだ。我々を、「いま、ここ」に引っ張り出して臨場させる(時系列がわざとザッピングして提示される事も含めて)力、いや意志に満ちている。オッペンハイマー自身のシーンは一人称で書かれているという脚本は、ライター/ディレクターである事を考えても近年では非常に珍しい手法であり、後半触れるがノーランがオッペンハイマーという「人物」に成り代わって、この数奇な史実の時間を綴って見せたと言ってもいいだろう。その「実体」には、盟友キリアン・マーフィーがやはり必要なのだ。演技者としてはもう何か書くような人ではないが、佇まいの見事なこと。ずっと任侠映画で脇をやってた菅原文が実録映画にピンで出てきたようなものである。

全体を過去のノーラン作品との対比的な視点で見ていく。

その感触というか鑑賞後感が何かに似てると暫く考えていたんだが、「コヤニスカッティ」を観た後の感覚だと気付いて腑に落ちた。両者は劇映画とドキュメンタリーという事で別ジャンルではあるのだが、「文明」「科学」という点で綺麗に符号する。「オッペンハイマー」全編で奔流のように我々をなぎ倒していくイメージショットの洪水、精緻な映像と編集、印象的に鳴り続ける音楽。それらが「コヤニスカッティ」を意識させるのだ。ノーランのWikiを見たら、本人も好きな映画として挙げているので、どこかイメージソースとしてあったのかもしれない。なのではっと思ったのは、このまま行くとノーランはドキュメンタリストになっていくのではないか、という事だった。「007」が撮れるまでは劇映画やると思うけど。

作劇手法としても、ノーランのこれまでの作品からの援用が見える。人物の両側面を別のキャラクターに割り当て鏡像のように見せる手法(「インソムニア」「ダークナイト」)である。これはスーパーヒーロー映画でよくある「ヒーローになれなかった者」を描く手立てである。本作ではロバート・ダウニーJr.がこの儲け役・ストローズを楽しげに演じているが、自分の信念/信条と科学に寡黙で誠実であろうとするオッピーとは真逆のベクトルで、そうまるで「悪魔」の策を弄し話術を駆使し、虚栄心と今風に言えば「自己承認欲求」を満たそうとするこの男は、ブルース・ウェインを精神的な裁きにかけようとするジョーカーを彷彿とさせる。天下のトニー・スタークに悪党をやらせる(まぁ以前からやってるが)確信犯。本作が伝記でありながら同時に(法律の外にあるという点でより一層苛酷な)法廷劇である点は、ノーランの倫理観/道徳観の内なる苛烈さ(ドSですね)を見せつける。この法廷劇は映画監督なら一度は通過するであろう点であり、「自由」を標榜する文化圏特有の「残酷さ」を描き出しつつ、一種の戯曲として、演者それぞれに見せ場を設けてそこからその人物を掘り下げるような方式で物語を縦構造に深化させている。くどいほどに人物のアップがゆっくりとズーミングされていく時、我々は「いま、そこ」を感じる。居合わせる。小さなディスプレイでは感じられず、かつ視覚効果に頼らない効果的な表現。間に差し込まれるインサートのイメージによって、冗長さを回避した周到なカッティングが活かされている。

本作にはオッペンハイマーの人生に関わる二人の女性が登場する。共産党員だったジーン・タットロック(フローレンス・ピュー)と、彼の妻となるキティ(エミリー・ブラント)。「運命の女」と言ってしまえば「母的存在の女」、二つの「強く、主人公を翻弄する女性像」が彼を揺さぶる。ノーラン作品の共通イメージであるこの配置は映画的な、極めて映画的な存在だが、ノーラン作品ではとりわけ主人公を呪縛する存在として際立つ傾向がある。お飾りは出さない。
特にみなさんご存知のように、マリ子ことマリオン・コティアールが振られる役どころ。その強い気性と奔放さで男を取り込んで離さない女。ファム・ファタルである。ノーラン作では初めてちゃんとおっぱいと一発ヤってるシーンが出た映画として後世に名を残そうというものだが(フローレンス・ピューはよくやったよ。だらしない身体がいかにも1940年代っぽくて最高だ)、時に揺れ動くロバートを「戦いなさい!」と叱咤し、ケツを叩き、子育てをろくにせず(ちゃっかり子づくりはしている)アルコールに溺れる恐妻・キティを演じたエミリー・ブラントの凄味たるや。お父さんびびっちゃったよ。ほんとに何を頼まれても要求以上の仕事をしてくる女優である。老けぶりもメイクできっちり見せて。授賞式シーンの怖い事。
これら運命の女像は、俺は弟であるジョナサンの筆により登場しているものだと思っていたのだが、どうやらこれは兄の方も意識として男を試す「鏡」として女性を描く傾向があるように今回思えた。

ジーンに関して、劇中唯一物語中で死ぬ描写がある人なのだが、ここに俺が過去作でも再三言っている「溺死のイメージ」が描かれている。「インソムニア」「インセプション」「インターステラー」「ダンケルク」等、ノーラン作品で人が溺れそうになる/その恐怖に陥るシーンは何度となく描かれているが、本作では最も個的な「死」の様としてそれを提示する。水は人間がコントロールできないものだ。自然の摂理だ。ロバートは直接彼女の自死を目撃した訳ではない、知らせを聞くだけだ。だがそれを彼は(観客は)その恐怖の「質」を知るがゆえにこの恐怖の像に囚われていく。それがあっての、あの審査委員会でのセックスシーン(決定的な「生」)が配置されている。彼女はタナトスの化身である。「致命的な女」である。

書いてきた通り、ノーランは本作でも炎、水、雲といった自然にしか制御しかできないものを強く意識して切り出していく。それを「作り出す」のではなく「捉える」事。それに腐心する。水面の波紋を、高空から見た雲の流れを、ロスアラモスの荒涼とした景観を。それを見せる事こそが一番のダイナミズムであり「映画」であろうとする。そういう意味ではトム・クルーズヤジャッキー・チェンとノーランは近似である。
核の炎についても視覚効果チームに最初からCGを認めていない。「描いちゃえばいいじゃん」を放棄する。映画と「センス・オブ・ワンダー」を生み出す事なのである。今回の手法はこの映画のベースラインにきっちり沿っている。ミクロをマクロ視点で見る事と原子核のイメージ。

音響へのこだわりもIMAXでの鑑賞体験を前提にして強く押し出されている。例の踏み鳴らし音と爆発の共鳴、あるいは「遅れてくる衝撃波音」。ただ轟音であればよいのではないという拘り。ルドウィグ・ゴランソンの神経質なスコアがずっと鳴りっぱなしで、その予感めいた不安のリズムが観客を包んでいく。総合芸術としての「映画」。

色々と書いてきたので演者の話をしてる余裕がないが、ひと言、毎度美味しいとこを持っていくなマット・デイモン。あとクソ忌々しい検察官を演じてジェイソン・クラークが後半を見事に持たせているのも書いておこう。ラミ・マレックが出てるのは、ほらあれだ、「007」に出たからだよ。

実際のとこ、本作って監督作としては一番中途半端だった「ダークナイト・ライジング」のリテイクみたいなもんだろうとも思える。あの核爆発をちゃんと撮らなかった事への心残りというか(本作でも実際にはそんなでっかい爆発が登場するわけではないが)。
「TENET」で自分なりの「ターミネーター」=キャメロンを消化したノーランの残っている興味は「伝記映画作家としてのスピルバーグ」ではなかったのかとも考える。スピルバーグのような職人仕事も商売根性も、彼とは真逆のベクトルにあるが、映画作家として超えるべきハードルのひとつはスピなのだ。結果として賞も獲って、人も入って、名声も確固たるものにした。やっぱりこの後は「007」をやらせてもらわないと、帳尻が合わないだろう。あんま見たくないけど。