ちょげみ

アメリカン・フィクションのちょげみのレビュー・感想・評価

アメリカン・フィクション(2023年製作の映画)
3.9
アイロニーに満ち満ちた、上品で洗練された映画だったなぁ、というのが視聴後まずいちばんに浮かんできた感想でした。

アカデミー作品賞にノミネートされるのも納得の出来といいますか、ノミネートに相応しい満足度が高い映画ではあることは間違い無いのですが、満足度の高いにもかかわらず爽快感が感じられる映画ではないということもまた正直な気持ちです。

ではなぜ爽快感が感じられないのか?というと、それはアイロニーの対象範囲、射程距離が広すぎるからで、対岸の火事を決め込んでいる我々観客にも火の粉が降りかかってきたからです。
より正確に言うと、対岸の火事であるにはあるのですが、延焼類焼で対岸側にも被害が生まれた、みたいな感じでしょうか。。。



[黒人の小説家であるモンクは自著に黒人らしさがないことを非難され、やけっぱちの投げやりみたいな気持ちで白人が好きそうな黒人小説を書くが、これが予想に反して大ヒットしてしまう。
あれよあれよと言う間にベストセラー、果ては映画化のオファーまで届くようになるが、何よりも小説の質を重視するモンクは頑として小説の進撃を止めようとするが。。。]

大まかなストーリーとしてはこんな感じですが、この作品は黒人差別やそれに類する思想や運動の取り扱いが目も当てられない惨状になっているよ、と言うことをアイロニックに伝えています。


まず冒頭。
モンクが受け持つ大学の講義にて、ある白人の生徒が「こんな下劣な言葉(黒人への差別用語)は聞くに堪えない。」
みたいな事を言い放ちます。
モンクは「これは歴史の知るために必要だから我慢してくれ。」みたいな事をいい生徒を宥めようとするのですが、結局生徒は教室を出て行ってしまいます。
実際に差別を受けて心無い言葉を投げかけられているのはモンクサイドであるにもかかわらず、自分が不愉快という理由だけで直面する事を避けているという事をシニカルに映し出しています。

アメリカ人の誰もが黒人差別の根絶を謳っていながら結局は流行りの思想やムーブに乗っかっている自分に酔っているだけでその実黒人のことなど何も考えていない。(ことはないと思うけど)

ステレオタイプの思考や受け売りの言葉を反芻するだけで実際は思考停止に陥っている、自分の守備範囲外の言葉は全て受け付けない白人、というテーマをこの冒頭で見事に伝えています。

物語はその後もこの調子で続き、ステレオタイプ的な抑圧された黒人の小説を求める世間や、枠にハマった思考にしかできない白人、などいったものをアイロニックに描き出し、黒人差別根絶運動の裏に潜む実態というのを余すことなく描き出しています。



ただ、型にハマった考えに凝り固まっている白人をモンクの視線を通して映し出す一方で、モンクのこともステレオタイプの思想にはまった、自分の気に食わない意見は一切受け付けない人間として皮肉っているんですね。

ここがこの映画の恐ろしいところで、視聴後の我々がすっきりとした気持ちで画面を閉じ終えることができない所以といいますか、。。

格言風にいうと
誤った者を責める者は、正義をなした気分になれる。誤ったものを責める者を責める者は、より正義をなしたら気分になれる。
という感じでしょうか。

アイロニーの対象に我々も入っているため安易に文句を否定すると自分も批判対象に入ってしまいます。
とは言え、ポジションをとって意見を主張しないと何も始まらないわけで。。。
まあ難しいところですね。


というわけで脚本的には非常によくまとまった映画でした。

〜〜〜〜〜

黒人差別根絶運動関連のあれこれについての実態をうまく描いているとはいったものの、一番問題なのは、黒人差別を問題視できるのはほとんどの場合白人サイドであるということなんですね。
歴史的にはキング牧師なんかが差別根絶運動の最前線に立ちアフリカ系アメリカ人を象徴し、その意見の代弁者として世に広く知られてはいましたけど、こと現代においては彼ほどの発言力を持った黒人はいなく、ほとんどの場合問題提起や話題を取り上げるのは白人サイドであることが多いと聞きます。
差別根絶に関するテーブルをセッティングするのはあくまで白人たちでしかないというのはどうも業腹で、主導権を持ち先導していくのが被害者サイドではないのはあんまりじゃないかなぁと思わなくもないです。
その話題の真ん中を突いているわけじゃあないですが、ここ最近のアカデミー賞においてもそのような傾向は顕著に見られるんじゃないかなぁと思います。
というのは近年のアカデミー賞受賞作を見れば明らかなように、アジア圏の作品や有色人種が作った作品が賞をとることがままあるのですが、ちょっと忖度に見えなくもないというのが自分の正直な感想です。
取り繕わずに言うと、とりあえずアジア人にひとつやふたつ賞をとらせておけばそれでええやろ、という主催者サイドの本音が透けて見えます。
そんな思惑があるにはあるのですが、一番大事な賞はちゃっかり白人が作った作品に与えるのですから、救いようがないなぁと思わなくはないです。
(とは言っても、なにも自分は賞の選考に不満があるわけではありません。
あくまで選ぶ側の姿勢そのものを問題視しているわけです。)
最終的な結論として自分が何を言いたいのかというと、選考委員側に白人以外もいないと差別を解消した事にならないのでは?発言力や権力を持つのが結局変わらないと今までの構造をそのまま引き継ぐだけではないのか、ということです。
ちょげみ

ちょげみ