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エクソシスト 信じる者のaのネタバレレビュー・内容・結末

エクソシスト 信じる者(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

1.ネタバレなし編


・本作は、伝説的なホラー映画の名作『エクソシスト』(1973)の一作目の「正当な続編」として位置付けられているものである。続編をもう一度新しく作る、という物語形式は、それ自体が比較的最近に確立されたスタイルなのだが、最初にそれが行われたのはブラムハウス配給の『ハロウィン』(2018)である。本作は、そこで行われたリバイバル形式を踏襲するために、なんとブラムハウス社が同作の監督であるデヴィッド・ゴードン・グリーンをそのまま起用して、『ハロウィン』でやったことをそのまま『エクソシスト』でもやろう!という企画なのだ。


・『ハロウィン』(2018)では、一応物語と登場人物自体は一作目の『ハロウィン』(1977)からそのまま引き継いでいるのだが、小ネタとなるような随所の背景やカット割等、よく見ると過去6作分にわたって行われてきたシリーズの決まり事や有名なカットが目白押しで、そしてそれがキルズとエンズという三部作にわたって続くという、何とも不思議なバランスの上に成り立っている作品だった。本作に始まる新生エクソシストシリーズも、最終的にはそのような踏襲を踏まえた三部作構想を予定しているため、事実上企画段階ではハロウィンのそれと、寸分たりとも変わりはないと見て良い。


・『エクソシスト2』(1977)以降4作品にわたって続いていったものを事実上なかったことにするというのは、実はファンの間ではそれとなく望まれていたことでもあったりする。なぜなら、一応それらの全てではカラス神父やメリン神父、そしてリーガンに至るまでの前日譚や後日談を語ってはいるものの、『エクソシスト2』ではキリスト信仰の話やホラー性自体から大きく飛躍した物語となるし、それ以降の『エクソシスト3』『ドミニオン』等ではもはやジャンプスケアを多用したホラー映画以上の要素を見つけることが困難で、これでは1作目の非常に大きなテーマであった「悪魔」が何であるかという問い自体が、徐々に薄れてしまっていた、という事情があるからだ。


・配給会社であるブラムハウスは、『ハロウィン』の他にも『ゲット・アウト』(2017)、『パラノーマル・アクティビティ』(2009)シリーズ、『スプリット』(2017)、『ミーガン』(2023)、『ミスター・ガラス』(2019)等、まさにホラーに特化したスタジオとして、ヒット作を大連発している、大変気鋭のスタジオである。余談だけど、ブラムハウスのロゴが最初に出る時、いつもあまりのホラー押しの大胆さに笑ってしまう。最高。ちなみにミーガンも2作目が既に制作されているとのこと。これは楽しみ!


・本作ではリーガン役のエレン・バースティンが再出演をしていることで公開前から有名になった。最初は断ったらしいが、その後2倍のギャラを提示されたところ、そこに悪魔のささやきを感じ、承諾することになったらしい。話が上手い。


(・以下ネタバレです。いきなり核心を突く意見を連発するので、ぜひ視聴後に下をスクロールしてください!)























2.ネタバレあり編


・まず何より感じたのは、キリスト教徒と悪魔の直接対決の場で、まさか悪魔が人工妊娠中絶「された」側の子供の声を代弁する存在になるとは全く思わなかったし、この脚本は現代の人工妊娠中絶の問題を考えても全くもって容認できるものではない。


・まず、2020年代におけるキリスト教の教義やその信徒という存在は、それ自体が共和党、とりわけ非常に保守的な思想と結びついているという、避けられない実情があるはずだ。現在では、トランプ政権での恣意的な人事改変が繰り返し行われてしまった結果として、連邦最高裁の判事は、9人中7人がカトリック信徒という割合であるのだが、その傾いた多数決のバランスによって、例えば州ごとの銃規制の撤廃をいきなり合憲にしてしまったり、また避妊薬の販売禁止を違憲、さらには黒人のいる地域での投票所の制限を違憲にしたり等、その時々で、キリスト的な価値観をそのまま反映させたような、非常に保守的な判断をしてきたはずだ。


・そして、その判断の中でも、最も米国内で問題視し、議論され、特に米国内のZ世代を中心にデモが頻発した話題こそが、2021年の人工妊娠中絶「違憲」判決だったはずだ。しかし本作では、物語の根幹を占めるストーリーの部分として、中絶されてしまった赤ちゃんというのが実は生命としての意識を持っていて、さらにその意識の中には、父母の究極的な判断の下、自分が見殺しにされたことに対しても実は自覚的ということが、全編にわたって描かれる(胎児の認識能力からして、ノンフィクションでそれはありえないことだ)。そのような娘の姿を「悪魔」としてみた主人公の父親は、この「現実(もちろんこれは、キリストという権威の下で内面化された、「胎児は自身の境遇について理解している」という思考法のことだ)」を直視し、向き合い、反省する。本作ではリーガンとなる少女に対し、取り立てて悪魔祓い以上のファクターが起きず、最初は霊的な存在自体に対して否定的だった父親が、娘をキリスト教徒によって人質に取られ、無理やり「選択」をさせるという、一種のディストピア的な箱庭シチュエーションにわざわざ押し込まれることで初めて、改めて父娘の愛情を再確認するのだ。これらは完全に、キリスト司祭と共和党側の連邦最高裁判事が繰り返し述べてきた、「意識のある胎児を殺すことの道義的危険性」というテーマを、観客に選択をさせることで迎合させていることとなり、結末の「キリストの加護の下、家族の愛で育てる」というのも、歴史に対して非常に無自覚であると言わざるを得ない。


・勿論、中絶に対する道義的な責任について、それが無いとは言い難い点も当然ある。ただ、個人的にはそう思っているというだけで、例えば60年代に中絶の技術が発達したとで女性の権利獲得が飛躍的に向上したという歴史的背景を考えれば、中絶を容認することと、男性以外の権利主体を獲得するという法的なプロセスは不可分であり、中絶を結果として憲法違反だと決め打ちすることは、それ自体が男性社会にとって非常に優位な立場をこれまで作ってきたことも、ここに書くまでもなく明らかにされてきたはずだ。それらを、個人の生命の処遇如何と、特定の教会権力とを天秤にかけ、極め付けに「あなたはどちらを選択するのか」という、非常に強引で、強制的な二者択一論に持ち込ませることに、何の面白さも正当性もない。


・少なくともこれまでの映画界における民主的な最低限のリテラシーによれば、このようなキリストと信仰意識の問題を取り扱う時には、常にそこに、反語としての民主主義的なメッセージを加えていたはずで、その点『エクソシスト』シリーズは、まさに内心における反宗教的な意識そのものが悪魔となって教会権力に襲いかかるという意味で、その極北でもあった。


・しかし、本作におけるメッセージは真逆で、「悪魔=中絶賛成派(ひいては「悪いこと」)」という構図に、最初から最後まで取り込まれ続けたまま一貫されている。悪魔というものが一方的に忌み嫌われ、権力によって淘汰されるべきというメッセージを、当然のように内包していることのあまりの無自覚さがあり、これにはかなり度肝を抜かれてしまった。


・幸い、作品として本作は演出含め未熟な点も多く、少なくともエンタメ的な面白さが少ない作品として仕上がっているので、「エクソシスト」シリーズが半世紀を経て、現代における保守派と男性社会にとってのバイブルとなってしまうという最悪の事態にはならなくて済んだことが救いだ。上の問題意識によって、米国では、興行的・批評的評価の両方で、ホラー映画界における歴史的な駄作であるという見方が今は趨勢だ。しかし、ともすれば次作以降もこのようなメッセージを内包したまま、巨大予算映画としてその地位を確立する可能性もまだまだ存在するのであって、それらが当然のように映画の文法として世界に受け入れられたとき、メディアとしての映画がその信用性を失墜させることは確実だろう。


・総評。個人的には、「極限の状況」「選択」「悪魔」「中絶」など、映画というメディアにおいてこれまで非常に慎重に取り扱われてきたテーマを全て輪にかけるように蹂躙し、何のメッセージ性や物語性、当事者意識というのも本当は持っていないはずなのに、単語だけで脅かし、その荘厳な雰囲気をそのまま観客に飲み込ませ、無理にでもキャラクターと観客の主体性を不必要に増幅させようとするのは、(勿論現実に生きていればそのようなシチュエーションというのは明らかに必要で、自身積も極的に利用する方法論でもありますが、しかし)こと映画という俯瞰性の高い媒体において卓越した表現であるとはとても言えないし、このような表現を自身が嫌厭しているという点も否めず、やむを得ず低評価とさせていただきました。この10年位でこのような非読解的で権威を前面に立てる映画が増えていること自体にも思うところはあるのですが、自身に合わなかった作品について深く言及するのは避けます。
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