テテレスタイ

伝説の白い馬のテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

伝説の白い馬(1993年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

お馬さんが出てくる子供向けの映画。

オーストラリアの大自然は雄大で優しく、時間がゆったりと流れていき、気づいたら寝ていたw
オーストラリアはトロピカルでサーフィンな国だとずっと思っていたので、雪が降るってことに一番驚いた。そういえば、お隣のニュージーランドには有名なスキー場があるし、同じ緯度のオーストラリアなら同じように雪は降るよねw

この映画では、馬が極寒の餌のない冬の時期に餌を求めて別の馬のグループのテリトリーに侵入して争い合ったりしていた。しかし、人間に飼われている馬は快適な暮らしが保障されていた。なので、自由と従属の対比が描かれていると思う。

ただ、それなら馬じゃなくても良いはずで、なぜ馬だろうと考えてみる。馬を見ると乗りたくなる。この映画に出てくる男も馬にまたがって移動していた。馬は人が乗るための家畜だ。でも、それは人間の都合であって、馬からすると迷惑な話かもしれない。

この映画で伝説の白い馬のお話を書いていたのは娘を持つ母だった。母娘は馬に自由を期待した。彼女たちは馬に感情移入していた。馬が人間に飼われることと、女性が家に囚われることが、なぜか頭の中でリンクしてしまう。女性と馬を同列に扱うのは気が引けるが、この映画では男と馬を同列に扱って戦わせているので、動物と人間の垣根は取っ払って良いと思う。馬が男の家から逃げるとき囲いを飛び越えていったし。

だから、束縛を脱して自由になろうというテーマになりそうではあるけれども、でも、もう少し別なテーマがこの映画のストーリーには隠れていると思う。



この映画では、柵と雷が象徴的に描かれていた。柵に入れられることで自由が無くなる代わりに安寧を手に入れ、柵から出ることで逆に自由を得る代わりに危険な世界が待ち受けていた。

その柵を壊すのは雷。映画の冒頭では雷によって柵が壊された。そして馬の置物も壊れた。娘は言った。「今日の雷は何かが違うわ」「何かを感じる」母も「何かが変だ」と言った後、本を読むはずだったのに、馬の話を急にしだした。まるで急に馬の話を頭の中で創り上げたかのように。

なので、特別な力を持ったサウラという馬は、空想の世界と現実の世界を隔てる柵を雷の力で壊して、現実の世界へとやってきた存在だったように思う。でも何のためにやってきたのか。サウラは自分の妻と子を男から取り戻すために雷の力を使って柵を壊した。それと同じように、人間の娘を空想の世界に連れ出すためにやってきたのだろう。



映画の中盤、娘は馬の調教の野蛮さを見て幻滅してしまった。人間が馬に縄をかけて力づくで服従させようとするのを見てしまったからだ。そのシーンでも柵があった。柵の中での人間と馬の格闘は、それまでにあった馬どうしの格闘と似ているように感じた。この映画は馬と男を同列に扱っていると思う。サウラも他の馬に襲い掛かって他の馬たちを配下に置いていたし、だから人間だけが特別悪い存在というわけではないはずだ。

お話の中の馬どうしの戦いはあんなにも魅力的だったのに、でも、それと同じように戦っている人間と馬の格闘は、娘には野蛮に見えてしまった。ならばたぶん、馬どうしの格闘も、実際に見たら娘はそれを野蛮だと感じるはずだ。

空想の中で想像するから魅力的に見えるけれども、それを実際に目撃したら正反対の感情が湧き起こってしまう。空想の世界だから良いのであって、現実の世界では輝きは失せてしまうのだ。だから、娘は願う。空想は空想の中にいてくれと。そして、サウラは娘の心に従うかのように、ラストシーンで空想の世界へと戻っていった。

この映画は何を主張しているのだろうか。お話に憧れて家から出ても理想の世界はそこにはないって事だろうか。いや、少し違うか。母娘が手当てをしたカンガルーの子供は、人間の理想的な世界になれてしまうと現実の自然界では生きていけなくなると心配された。だから、こういうことか。理想的な人間の世界に生きていても、家の外には厳しい現実の世界がある。だから、理想的な家の中にいても、外の厳しさに対応できる訓練をしなくちゃいけない。サウラも親から厳しい自然の中で生きる術を教わった。人間もそうあるべきだということなのだろう。オーストラリアは常夏の楽園なイメージが強いけれど、それでも自然の厳しさに備える必要があるってことなんだね。