テテレスタイ

アガサと深夜の殺人者のテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

アガサと深夜の殺人者(2020年製作の映画)
2.5

このレビューはネタバレを含みます

ググらないとストーリーの真意がわからない映画の第三弾w

今回は、アガサがポワロを嫌いになった理由がテーマ(だと思う)。

アガサのことをググって調べてみると、生涯で66の長編小説を世に送り出していて、そのうち33作品にポワロが出てくる。きっかり50%の出演率!
でも、1941年の「NかMか」というスパイものの推理小説を境に、ポワロの出演率が約半分になる。
「NかMか」より前ではポワロは20/29=69%だったのに、「NかMか」以後は13/37=35%にほぼ半減している。明らかにアガサの中でポワロの位置づけが変わっている。

2010年10月、アガサの孫が「アガサはポワロにうんざりしていた」と語ったニュースが全世界に流れた。ファンにはショックなニュースで、ポワロはアガサにとって生計の手段だったらしい。この映画でもアガサはポワロの原稿を売って生計の手段にしようとしていた。アガサの頭の中ではポワロ向きじゃないアイデアがたくさん生まれているのにみんなが求めるのはポワロばかりで、だからうんざりしちゃったらしい。簡単に言うとニーズとシーズの違いってことになるんだろうけど、それをもう少し具体化したのがこの映画だと思う。



この映画の冒頭を見て真っ先に思うのが、トラヴィスって誰!?なんでアガサとそんなに親しくしてるの!?ってことだと思う。トラヴィスが何者かはその後判明するんだけど、僕はこのトラヴィスはアガサの中のポワロに対するマイナスイメージを抜き出して具現化した存在だったと、そんな風に想像している。

トラヴィスは
・アガサに馴れ馴れしく、ユーモアがあり、頭も冴えていて、
・警官を抱き込んで、
・アガサを騙して地下に閉じ込め、
・アガサの時間を浪費させ、
・アガサのお金を奪おうとし、
・あまつさえ、アガサの命まで奪おうとした人物だった。

ポワロがアガサを束縛しているのは何となく分かるんだけど、お金を奪おうとしているってのは逆じゃね?って思ってしまう。でも、この映画でもそうだったけど、アメリカからの印税収入がストップしていたため、逆に税金が払えない状態になって資金面で苦労したみたいだ。最後の、命を奪おうとしたって部分は、作家としての命ってことだろうと思う。

映画のクライマックスシーンで、アガサとトラヴィスの二人がバーのラウンジで対決した。あのシーンはアガサが自分の中の妄念と闘う場面だったと思う。トラヴィスのアガサに対する殺意は、実は、アガサのポワロに対する殺意の鏡写しで、アガサはその殺意を肯定する。肯定するのならばアガサはポワロを捨てることになるんだけど、でもアガサはポワロの原稿を大切に鞄にしまうんだよね。これは何を意味しているんだろうか。

アガサは毒をすり替えてトラヴィスを罠にかけた。トラヴィスはアガサにとって毒だった。その毒をアガサはすり替えた。たぶん、このすり替えが重要で、アガサはトラヴィスという存在を別の何かにすり替えたのだと僕は思う。

トラヴィスはポワロのマイナスイメージを抜き出した存在だったが、すり替えたことで別のものになった。たぶん、トラヴィスはポワロじゃなくてアガサ自身の心の中の闇に最終的にすり替わった。

いや、すり替わったというのは正確じゃなくて、もともとトラヴィスはアガサの鏡像だったのだが、それをアガサがポワロの鏡像にすり替えていたんだと思う。もともとすり替わっていたものをバーのラウンジのあのクライマックスシーンで正しい位置に戻したというのが正解だろう。

だから、この映画はアガサが自分の中の悪い心を退治する話で、ポワロに執着してしまった偏った心をニュートラルな状態に戻したんだってことを示すストーリーになっている。約69%という偏った状態から、35%というニュートラルな状態へと遷移する過程のアガサの心理を描いた映画。

ストーリーの結論としては、アガサはポワロにうんざりした結果、ポワロは自分の外側のものだと無意識的に思っちゃったけど、本当はそんなことはなくてちゃんとアガサの中に存在する人物だったんだよってことになる。

で、この映画がそれを戦争に絡めたのは、イギリスがヨーロッパの外なのか内なのかってことと似ているからで、外だって思う心理と、内だって思う心理が交錯して、そこからいろんなストーリーが生み出されているんだろうなって想像が膨らむ。実際のところ政治的にどうあるべきなのかなんて僕の手に余る話だからこれ以上は語れないけど、イギリスは潜在的に何かを生み出すエネルギーに溢れた場所なんだなって思う。