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不安は魂を食いつくす/不安と魂のotomisanのレビュー・感想・評価

4.1
 恋は言葉じゃなく. . . なんて、ね。二人だけの物語がダンスで触れ合う手と身体で通い合うんだなぁ。日本人ならサザンのメロディに合わせてそいつがピンとくるわけよ。野暮天の酢キャベツ喰いどもにゃ千年早いだろうぜ。しかしだ。

 ドライな俺らはもう一方で思う。当代、1974年ドイツ社会の云わば辺境人であるエミ婆ちゃん、つまり30年前にはナチ党員で、なのにポーランド人に嫁いで、今じゃ亭主にも先立たれ子供らも皆他出しての独り身で最低賃金生活状態にある婆ちゃんの勿論、そんな身の上も黙っていれば分からないわけだから、要は隠れ爪弾き状態に過ぎないんだけれど、それでも託っているだろう寂しい気持ちの隙間は、まあ、ドライでも察せられる。
 ただ、その隙間に入り込むモロッコの男、通称アリのこころの内の読めなさにどこか警戒を解けないものを覚えるのだ。

 ならば、そのアリとは何者だろう?
 これは、風変わりで誰からも白眼視される年の差婚の顛末では済まない。二人の出会う2年前、ミュンヘン五輪とそこで育まれるべきドイツ・ユダヤの和解的気分をテロの血で汚してくれた憎きアラブ人、オイル・パワーを結集させて欧州に歯向かうアラブ人、低賃金非熟練労働力として大量に入国を許し顎で使うべきアラブ人、ドイツ語も解せぬ文明以前で放送禁止用語なアラブ人、その典型であり代表がアリである。
 多数のドイツ人的には「労働収容所」の6人部屋さえ寛大というべきアリが目に見えない鉄条網を乗り越えるようにドイツ人女性(ポーランド姓だけど、元ナチだけど)と結婚しようとは進歩の先端を進むローマ的帝国民の末裔な自負も薄れないドイツ人魂に冒涜と突き刺さるわけだ。

 では、それを押して年の差婚に踏み込もうというアリの存念とはどんなものだろう?
 日本にも悪名高い実習生制度があるように、経済発展の下支えとなる低賃金労働者として入国したであろうアリにドイツの福祉が十全に適用されることは考えにくい。
 その点を端的に示すのがエピローグでの、急病を発したアリについて医師が示した所見にも表れている。典型的な流入労働者のストレス性疾患で半年後には、と言葉を濁す先の語られない現実がアリの容態の改善の難しさか、あるいは医療保障の制度的限界かのいづれか、または両方の前途無しかを暗示している。
 おそらく、独り身のままのアリなら、このときの病院への収容さえままならない事であったろう。
 この年の差婚のおかげで典型的アラブ系労働者病の窮地の第一波を乗り切れたアリの、本人は口が裂けても言いたくないだろう、これが打算の成果。と、ドライな頭の隅にちらりとよぎるのだ。

 人の噂も七十五日と言うけれど、三月だか半年だか過ぎて何となく世間との軋轢の圧が緩んでみると、二人の間には逆にすれ違いが目立ってくる。あれがアリにとって無理に図った結婚のツケなのか、裏腹なこころに面と向かう事の後ろめたい気分の表れなのかは知らない。
 だから、憂さ晴らしの筈なのに負けの込んだ博打を、大一番で一発逆転して、壊れかけたエミとの仲を、出会った頃の二人にも一度戻ったようにこころを通わせようとして倒れるアリが、あのとき真実を何と定めたのか?彼がそれ以上語る事がないならどうしようもない。
 しかし、1974年ドイツの世間で互いに対極的な二つの辺境に生きて来たこの二人のやっと始まって間もない暮らしに、どうか嘘も本当へと相転換せよ、と思う。
 結局避けられなかった困難と典型的新住人病とがどんな覚悟を二人にもたらすのだろう。これは当時のドイツ社会が向き合うべきより良い道の模索のありそうな一例でもあったのだろう。
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