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ぼくとアールと彼女のさよならのotomisanのレビュー・感想・評価

4.1
 単に老け顔の「ぼく」はビーバー似と自称するが、そのほうが笑いをとる余地が多いだろう。笑いを取るとは「ぼく」が校内で非同盟、全方位外交を旨とするうえで手放せない緊張緩和のカードだ。
 中立を叫ぶほど危険なやつら同士の角逐が起きてるわけでもないし、そんな具合であったとしても名誉ある孤立を維持できるほど強力でも無し。現にみんなそれぞれ横並び的な高校生活界で融和的上っ面外交でもってみんなを笑わせていれば、あと一年の辛抱で「ぼく」の「いま」を無難にクリアできるはず、だったのに。
 社会学者の親父をはじめお袋もネコも奇妙な課題「特殊レイチェル状況」を圧倒多数で突き付け、弱腰の「ぼく」を見透かしたネコは「逃げるな!」とひっかいて寄越す。そんな無理無体だが人命にかかわる件だけに、個別案件には深入りしない建前に籠れば道義、人道性への疑念を持たれ兼ねず、とあらば無碍な対応は取れない。

 とりあえず外交では、特段の友人アールを「共同制作者」ファースト・ステークホルダーと取り繕う。「ぼく」にとってのアールは切っても切れない相棒だが、周囲には、仕方なくてさ、とほのめかす外ない。
 ちょっと待て、人生の半分にわたり42本も映画を作って来て今更何がしかたないのか?でもそれを誰も疑問視しないくらい「ぼく」は誰にも無害で薄くてどうでもいいワケだ。
 こんな調子だから人命にかかわるレイチェルへのお見舞いといえども、赤の他人に準じたスタートでそのままお開きとしたいところ。アールはまだしも男だが、レイチェルは女で不可解で厄介そうで、未知なる白血病で、今は高校最終年で、同級の「ぼく」は進路のシの字もない、つまりレイチェルと同じく明日のない状態で。
 この老け顔をぶら下げて一段と巨大な大学世界で旧外交ステージで培った薄ーい人脈もほぼ絶たれる新ステージでは新規蒔き直しを迫られる筈、しかし、「ぼく」的社会論の実践にはもう充分疲れた。

 片や死の淵を覗こうというレイチェルに接し、自分の事に精一杯な「ぼく」は彼女を慰めればいいのか励ましたらいいのかさっぱりわからない。ところが周囲は「ぼく」らの距離を昵懇な間柄と眺めて寄越し、動揺する「ぼく」は相次いで外交上の失敗を重ねてゆき、挙句に彼女との昵懇さえ、どんな下心?と囁かれてしまう。
 分からないといえば、「ぼく」は自分がさっぱり分からない。分からないから自分のドラマを描けずに、大学の淵に立たされて飛び込む自信はおろか喜びも奮い起こすべき勇気の取っ掛かりも見出せない。そんな「ぼく」だから42本の実績も映画という態のものか?イラストレートされた「ぼくたち」がパロディーすら成立せず映るばかりで我が心にさえもさっぱり打ち返してくるところがない。
 「友人」アールはそれに気付いていたのかどうか。彼女のための新作を反故にして遂にビデオレターで己が胸中を繙いて見せてしまった。これを裏切りと解すべきであるか?「ぼく」の破綻といってもいい流動化を始めた外交に最後の鉄槌を振って同盟を壊してくれる。いや、実際に壊したのは「ぼく」自身の手詰まりと不作為ゆえだったのかもしれない。

 お愛想という原初的外交サインがレイチェルには何の役にも立たず、当然、芸人もどきなナンセンス言辞を振るっても実りなく、「いまを生きて共にあろう」というモットーを明言する前に遂に彼女は死の淵へと下り始めてしまう。しかし、二人現に共にあって、いま息をしてはいても、その先を標榜する言葉をなにか思い浮かべさえできていたか?
 戸惑いを隠しもせず、クッションのフランチェスカを盾にしてその向こうに一歩も進まなかった「ぼく」がやっと卒業の晩にナンセンス映画をレイチェルの病室でプレミアム上映して見せるが、その無味乾燥ぶりにレイチェルもやっとこの世への諦めがついたのかもしれない。
 しかし、何も変わらない頑固な「ぼく」がレイチェルの生き甲斐となり、男ってどうしてこうなんだろう、と消えた父親に続いて現れた厄介な男の子の新人生の面倒見を仕掛けて死んでゆく。この一年を自分に向き合ってくれて、なんの実りも得られなかったバカな子の、ほっとけばどこに向かうか分からない明日のために女らしい取り越し苦労を買って出て、大学入学の嘆願書を送り弁明の機会を取り付けてくれていた。

 では、「ぼく」は彼女が生きていたらその機会を受諾したろうか?
 起こらなかったことは分からない。しかし、死なれてみて初めてフランチェスカの盾の向こうに踏み込んで発見したのは、消えた父親を切り刻んで(蔵書を、その内側を、なんだがね)残したレイチェル自身の痕跡であり、「ぼく」が桎梏とした「大学要覧」に施したふたりの姿である。
 生きてそれ等の存在とかの便宜とをおくびにも出さなかったレイチェルに何故?ともう問う事も出来ず、知らされたとしても恐らく自身のとる反応に訳も分からず、身を退くばかりとなっただろう「ぼく」は重ねての思考混乱に自らへの幻滅を募らせたろう。
 だからもはや涙も出ない。その代わり、こんな自分のし残したこと、これまで気付こうともせず擲ってしまったことの諸々を課題と素材の宝庫、手掛かり足掛かりとして生きる事を表明するだけではないか?
 その場が大学であるのか否かは知れないが、どこに「ぼく」が赴くにせよ、レイチェルは、それでいいよと念じてくれていただろう。
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