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親愛なる同志たちへのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

親愛なる同志たちへ(2020年製作の映画)
2.0
[真実がフェイクに変わるとき] 40点

1962年6月1日、ノボチェルカッスクで大規模なデモが起こる。慢性的な物価高に加え、賃金が大幅に減らされると知らされた労働者たちが立ち上がったのだ。現代に蘇ったワイダ『鉄の男』が始まるのかと思いきや、本作品の主人公はそれを潰す側の人間なのだ。冒頭、不倫相手の部屋で起きた市政委員会の生産部門課長リューダは、物価高について小言を言うが、次に彼女が食料雑貨店の裏に通された際には"党の言うことは絶対だ"と店員を言いくるめる。どうやら二面的だと思ったらそうでもなく、彼女は熱心なスターリニストだったのだ。『DAU. Degeneration』では"共産主義は基本的に宗教と同じ"という言葉が語られるが、彼女は二次大戦と戦後の貧しい時代をシングルマザーとして経験してきたため(本当に『Beanpole』の世界だ)、心の拠り所としてスターリンを崇拝してきた。フルシチョフがトップになると、人々は手のひらを返したようにスターリンを批判し始め、そんな気に入らない態度と共に冒頭の慢性的な物価高に直面し、リューダはスターリン時代を懐古しているのだ。それに対して、リューダの父親はソ連が一貫して弾圧してきたキリスト教のイコン画を掘り返し、ドン川流域のコサックたちに言及する。彼女が信じてきたスターリンが殺してきた人々を歴史の表に出すことで、これから殺される人々との連続性を暗示する。ちなみに、ショーロホフ『静かなるドン』にも言及されるが、これはスターリンの愛読書だった。
しかし、終盤になるに連れて、リューダは娘が消される/消されたかもしれないという恐怖から、父親の言及したスターリン時代の遺物を目の当たりにし、信心が揺らぎ始める。彼女は神に祈り、国家を信じられないと語るまでになるので、耳に残るあの歌は『フルメタル・ジャケット』のミッキマウスマーチ(行きが本歌、帰りが替え歌という感じ)のような役割を持っていると思う。

前半40分くらいは、ワイダ『鉄の男』やロズニツァ『The Event』をもっと見習ってほしいくらい熱気と切迫感のないデモが繰り広げられ、鈍重な編集によって工場や市の党本部などを右往左往する幹部メンバーを描き出していく。彼らはただの中間管理職で、KGBや軍などが出動する中で、彼らは名ばかりの権力者に他ならない。群衆が目の前の広場まで来ても防ぐ手段も交渉する材料もなく、酒を飲んでよし逃げようと無様に避難はしごを下っていくしかない。逃げてる彼らにも切迫感がないのだが、市政委員会→地区委員会→中央委員会と話が大きくなっていくにつれて、市政委員会のお偉いさんであるリューダの存在も、"one of them"として回収されていく様は興味深い視点だ。

しかし、ここで話はリューダの娘スヴェトカがデモに参加して失踪するという話に切り替わる。上記の面白い視点や対比をかなぐり捨てて、病院や死体安置所や知り合いの家を回って娘を探し歩く様を、やはり鈍重な編集で組み上げていくので、急激に話が失速していく。しかも、市政委員会の偉い人やKGBの上級職員が、"国家権力が事実を握りつぶそうとしている"と言わせるためだけに、無条件で彼女に協力するのだ。流石にこんなファンタジーを認めちゃいけないでしょ。最近だけでも『Seberg』『シカゴ7裁判』などで"捜査官も実はダメだって分かってました"みたいな描写を差し込む事があったが、別にそう描く必要性は何処にもない。こういった不必要で意味不明な付け足しが、鈍重さに拍車をかけている。これは多分80分でも多いくらいの内容。

一つ良かった点として、市民の血が流れた後、清掃員が血まみれの地面を水で流すシーンがあるのだが、モノクロなので血を洗い流している感じはせず、ただ水が流れているだけに見える。これこそ、政府が自国民に発砲した暴動を覆い隠そうとしているという映画のテーマを総括するような名シーンだ。

ちょうどバイデンが当選確実になったタイミングで観たので、本作品の薄い希望を抱かせるようなラストは、叶わぬ希望ではなく実世界を反映したものになっていただろう。しかし、その拠り所となるのがKGBのおっさんの口約束なので、実際にはそこまで希望的でも感動的でもない。『DAU. Natasha』を観てしまうと(いや観なくても)、KGBなんか信じられるはずがない。
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