糖

ボーはおそれているの糖のネタバレレビュー・内容・結末

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

長い!
昨今の映像の長尺化が〜という問題とは別に、たんにこれらの主題でこれらの表現でこれらのイベントを経て、一本の映画にするなら3時間は長すぎる。
画が止まる場面の多くは、ボーの心的な停止を意味する点できわめて有効だった。眼前の選択
に対する迷いやあるいはそれすらもない停止の状態、これらの表現に必要な間が丁寧に割かれている。しかしそれを抜きにしても劇中劇はじめすべてのパートが少しずつ長いため何を見せたいのか、何を見るべきかが曖昧になる場面があった。
内在するテクストがどれだけあるかは定かでない(わからなかった)が、最後のモーターボートの場面で胎内へ回帰"させられる"ボー、というメタファーの活用があったりと、アリ・アスターっぽい物語の諸相は楽しめる。

序盤はよくあるグレートマザーと子をめぐる問題が前景化していたが、実家を尋ねる場面で発達障害児としてのボーがフォーカスされることで、たんに母子の共依存として読み切ることのできない物語になる。ただ所謂『トゥルーマン・ショー』的な仕掛けが医者宅のパートでわかってしまうのでその後2時間弱(?)は結末についての予感とともに過ごすことになる(「バースデーマン」がフィンチャーの『ゲーム』的構造の伏線かと思ったら全然違った)。

また『トゥルーマン・ショー』でいえば主人公は水を恐れるよう教育されることで島の外へでられなくなるが、ボーは母から聞かされた父の死因の話によってセックスを恐れるよう教育されている。医者が「睾丸が腫れている」云々と言ったのもおそらく母の差し金であろう。幼少期、ボーがキスをうけただけでヒステリーを起こした母らしいといえばらしいのだが、子に対する支配欲、独占欲、依存のみがこうしたセックス忌避の教育を行わせたのかと言われると疑問が残る。屋根裏部屋にいた父がペニスの姿をしていることは、母の父に対する嫌悪、あるいは男性にたいする性的嫌悪感に由来するものではないか。

残る疑問としては、ボーはなぜ最終場面で裁かれたのかという点である。
最後の裁判パートで検察側の男はボーについて複数の罪を指摘する。魚やアヒルの世話はするのに物乞いは助けない偽善、出会ったばかりの女(実際は異なる)とセックスをしたこと、総じて母と母の愛に対する裏切りの指摘である。
物語を通してボーは選択・岐路に対して成すすべを持たない人物として描かれる。些細な事柄も自分では決められず、不安妄想に駆られる、にもかかわらず家の鍵をそのままにしたりと決して高くない危機回避能力をみせる。この選択にまつわるボーの短所は終盤で母も指摘する通りだが、これに関してボーは劇団で自ら自分の衣装を選択するという成長をみせる。また、劇団の女性にメッセージ入りの像を手渡している(序盤で母に宛てて買った子を抱く母の像だが、ボーは浴槽でこれを左手に、スマホを右手に持ち呆然とする。依存先としての母、自らの自立を妨げる母、自らの自立を助けるはずの母、愛する母のモチーフが左手に、母の死という現実が右手に、半身を分けるように握られているのが象徴的)。つまりボーは自立へ向かっていた。
しかし、母を殺すには至らなかった。それゆえに、母を虐げ母の支配から抜け出そうとした罪人として、グレートマザーによって裁かれたのである。
全体像は理解するに難くないものだが、即ちボーの成長、成功がボーを殺した。エンドロールの寂寥よ。
糖