糖

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアの糖のネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

決して快い映像ではないが、「嫌な感じ」の演出で2時間尺を非常に短く感じさせる良作。
呪いのルールがいまいち明確でない(例えば一人が呪いで死亡したのちに一人を殺す形もアリなのか、呪いによる死者が出た時点で誰も助からないのか、など)のは気になるが、呪いの設定者がおそらくマーティンでないことを考えれば説明役の彼が隙なく詳らかに語らないのも正解なのか?
ともかく、呪いを説明するマーティンはどこか諦念を含んだ口調で、システマチックなきらいがある。呪いであるとすれば呪った誰かがいるはずで、しかし医療ミスという事象自体が、あるいは世界が引き起こした「バランスをとるため」の「出来事」であるようにも描かれている(マーティンの母による呪いの可能性を論じる方もいたが、明確にそうであるという描写はないはず)。誰が事を引き起こしているのかという問い自体は無効な気もする。
また、全体を通してとりわけ驚かされたのは音楽だった。壮大なクラシック、不穏なBGM、これらは誰に寄り添うものなのかといえば、それはスティーブンであり我々観客でもある。これのおかげで脱力せずに観させられる。
コンテクストとしての『アウリスのイピゲネイア』は終盤で名前が出ることに加え、タイトルから既に明示されている。しかし「イピゲネイア」が回収するのは「鹿殺し」のみで、「聖なる」の部分は作中から明らかにしなければならない、というのもギリシャ神話における「鹿殺し」の場面は宗教的というより神話の中にありながらむしろ政治的な側面が強いためだ。ルーレット発砲の場面でスティーブンが3人に布を被せるが、これは古くより供犠等の場面で採られてきた罪悪感を減ずるための方法であると把握している。生贄儀式のなかに「聖」の要素をみとめるとすれば、モースやバタイユが論じた供犠についても一考の価値がある(ただ鑑賞中には「供犠」を枢軸として作品を読みきれなかった)。一人の殺害に対する一人の犠牲、というこの「出来事」に対して倫理的な判断を下すのは我々の仕事であるとして、同時に「聖なる」即ち宗教的な判断をすることも可能であると認めねばならないだろう。
キム、犬の散歩代わってあげようか。
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