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劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編] 僕は君を愛してるのフォスフォのレビュー・感想・評価

3.8
TVシリーズの補完としてはいいように思った。いまみると当時考えが及ばなかったことも色々わかりやすくなっている。基本的に自己犠牲のはなしで、コスト=罰を誰が引き受けるかというようにみえて、実は違うという。誰かが誰かを庇ったり、誰かの代わりになろうとしたり、傷ついたり、誰かに代わりに罰を与えようとする。けれどもそうじゃなくて、必要なのは共同体として愛も罪も共有するんだ、というアンサー。

「何者かになる」ために必須の愛=リンゴは運命として選ばれたから獲得したり、誰かからもぎ取るものじゃない。そもそもが完璧な愛なんてものを与えられたものなんておらず、誰にしても透明な足りない部分のある「欠けたこども」なのだから、足りない愛=リンゴは共有すればいいじゃんという至極シンプルな答え。そして罰といえば生まれたことそのものが罰なのだから、それさえも分有してしまおう。原罪である箱の中のリンゴの片割れの断面=ハート型、と環状線が切り替わって95年の事件から蠍の炎につながるまでの、リンゴと鉄道を媒介にしての聖書→ドキュメント→宮沢賢治のモチーフの転換とレイアウトの繋ぎはやはりもの凄く、見直してみてもイクニの面目躍如という感が強い。

答えはシンプルなんだけど、「運命の乗り換え」の結果兄弟が死んじゃうから自己犠牲と区別がつきにくくなってるのかも知れない。でも新規カットのお陰で、ちゃんと高倉兄弟がまっさらな状態であたらしく生まれ直していることがわかる。ツギハギのぬいぐるみも残っているし、「運命の乗り換え」というのは、サネトシのいうすべての運命=呪いを白紙にもどすカタストロフではなくて、傷を受け入れた上でまたやり直すということなんだろう。運命=呪いを少しでも取り除くこと、そしてそれを生まれ直した高倉兄弟のようなつぎのこどもたちに繋いでいくこと。俗っぽくいえば、社会のセーフティーネットをさらに稠密に編んで愛も罪もみんなで分有することで、根底にあるモチーフの神戸連続殺傷事件やサリン事件というような95年的な「呪い」の発生を防ごう、ということだろうか。そこまでして、はじめてかえるくんはピングドラムを救うことができる。そして、そのための秘密の合言葉は「運命の果実をいっしょに食べよう」という呪文に違いない。
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