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アビエイターのotomisanのレビュー・感想・評価

アビエイター(2004年製作の映画)
4.0
 「粗にして野だが卑ではない」
 連邦議会の公聴会に大戦での軍事支出を濫費した廉で召喚されたハワード・ヒューズ、その正念場で廉を咎にすり替えようとする聴聞者の議員に対して彼が取った徹底抗戦の態度に感じたのは、そんな言葉が似あう、ということである。
 それは、小説家城山三郎が五代目国鉄総裁を務めた石田禮助の人となりを伝えるのに相応しいと取り上げた言葉である。元は石田が総裁就任の際に国会で登壇し、自らをそういう者であるつもり、と議員らに述べたことに由来する。
 カネでしか動かない人、モノ、事、とりわけ選挙を動かす実弾集めに汲々とする議員ら、寄せ集め与党「自民党は自分党」とからかわれたように政策そっちのけで我が票田整備にカネをばら撒く議員らを前にそんな言葉を吐いてどれほど敵をつくったろう。しかし、三井を経て来た石田をスカウトした池田勇人は政敵佐藤栄作の国鉄への影響力を殺ぐためにも「卑ではない」男を総裁に据えたものと思う。

 アメリカ人のほら話というやつかも知れないが、この公聴会の場面もどんな誇張があるのやら。そうでなくとも、いまだに係争中とも聞くが、晩年の放浪生活で1ドル恵んでもらった恩人にとんでもない額を遺贈せよと書付を残したり、成金二世として世に出た当初の航空活劇映画と航空好きでのあれこれと、この映画でも快男児一代記の大爆発である。
 しかし、そんな活躍の中に差し込まれる不穏なこころの病気の影がハワードをジェット飛行と成層圏より上には上昇させなかったのかとも思える。

 果たして映画もまた、さきの公聴会での独占企業パンナムとその御用聞きブリュースター議員を異例の禁じ手、反対糾問で撃破し、人類の新天地である気圏への進出を加速させる航空への情熱を説き、独占企業と強権政治に空を明け渡してはならないとの舌鋒を叩きつける事をもってハイライトとして描いているが、その直後の病勢昂進が全てを阻んでしまうのだろう。コンステレーション機からほんの3年でダグラスとボーイングが空模様を合理的で卒のない単純さで染め上げてしまう。

 ハワードが健康でいたならどんなジェット・エイジを画してくれたろう。さらにその関心は気圏に留まっていただろうか?今でこそマスク氏やら民間人がどしどし宇宙に進出しているが、当時世界の富のなんぼかを握ったハワードがNASAと軍の向こうを張って無重力を実感し、青に茶色やら白いやらな地球を眺める想像を禁じ得ない。
 それともそんな意欲が新たな公聴会を戦略空軍と宇宙軍事利用にまつわる冷戦下の技術情報管理を理由に生むことになるだろうか?そして、米国民もパンナムの野望と御用議員を葬った昔のようにハワードを支持できるだろうか?
 次の世界戦争で本当に人類が破滅してしまうかもしれない不安に駆られた人々に、自由である事の不気味さをハワードは突き付けることになったかもしれない。

 ハワードの自由は石油利用の増大と共に拡大し、石油利用を土台とした航空機によってさらに世界を広げた。自由と共に富を集めたハワードが個人の関心事ひとつを追いかける事で後世の者がこんなえらい大ぼら話を咲かせたかと思うと愉快半分、なんとも言えない変な気分半分だ。それは同じ空の住人でありながら第一次大戦後食うために生死の境を綱渡りした零細飛行家が大勢いた事を知っているからである。あるいは、今じゃあ禍根だらけのように云われる石油の世紀にあって膨大な利得を享受し同時に航空の世紀の立役者の一人ともなった男のまるで裸一貫な感じの妙なちぐはぐさのせいでもあるだろう。
 ただ、当のハワードも瀕死の大事も満たされない恋のあれこれ、病気に押される後半生の不遇もあるけれど、世界屈指の身の上をこうも見事に使い切った半生記にスコアのおまけをしたくなるのだ。
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