Arata

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのArataのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

初日に鑑賞。
少し忙しくしていたので、レビューを書くのに時間を要してしまった。
一言に忙しいとは言うが、今回の忙しさはいくらでも喜んで引き受けたいと思える様な、非常にポジティブな内容だったので、ちょっとした高揚感すらある。


閑話休題、マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ氏、レオナルド・ディカプリオ氏出演、脚本にエリック・ロス氏、音楽を先日お亡くなりなられた元ザ・バンドのロビー・ロバートソン氏と、この名前の並びだけでも一見の価値がある。


鑑賞後、原作本があると知り、新宿紀伊國屋書店さんへ赴くと、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンーオセージ族連続怪死事件とFBIの誕生(早川書房):著者デイヴィット・グラン/訳倉田真木』と言うタイトルで販売されていたので購入。早速読んだのだが、細かな事象は忠実に、そして人物の心理描写などはまるで見てきたかの様な脚色が施されていたのだと知った。

ちなみに、以前に単行本として発行されていた際のタイトルは、『花殺し月の殺人: インディアン連続怪死事件とFBIの誕生(早川書房)』として売られているとの事。

なお、劇場でのパンフレットやサウンドトラックなどの販売は無かった。
サウンドトラックは、デジタルコンテンツは既に存在するらしいが、レコード盤とCDは12月に発売との事で、レコード盤を予約。


【あらすじ】
禁酒法時代のアメリカオクラホマ州で、ネイティブ・アメリカンのオセージ族の集落で油田が発見される。

オセージ族はその恩恵により財を築くが、同時に金の亡者達も連れてきてしまい、オセージ族の人達が大勢不審な死を遂げるも、きちんとした捜査は行われない。

果たして真実は暴かれるのか、オセージ族達の運命は、それらアメリカの過去の闇の部分を社会的に描き、お金より大切なものは何か、愛に必要な事は何か、などと言った事を人間味あふれる登場人物達が、遠い異国の現代人の我々にも理解出来る普遍的なテーマで表現されている、史実ベースの人種間差別的過激思想によるクライムヒューマンドラマ。



【感想など】
・タイトル
フラワームーンは、小花が咲く頃の満月と言う意味で、5月の満月を示すネイティブアメリカン由来の呼び名。
ちなみにその他、以下の様に呼ばれる。

1月ウルフムーン
2月スノームーン
3月ワームムーン
4月ピンクムーン
5月フラワームーン
6月ストロベリームーン
7月バックムーン
8月スタージョンムーン
9月ハーベストムーン
10月ハンターズムーン
11月ビーバームーン
12月コールドムーン

自然と共に暮らしているネイティブアメリカン達の生活の様子が垣間見られる、素敵なネーミングセンスだなと感じる呼び名。

しかし、ここではそれを引用し、とある事件を表現するタイトルとなっている。

原作によると、『オセージ族保留地の、ブラックジャック・オークの生い茂る丘陵や広大な平原に無数の小花が咲き群れる。スミレにクレイトニア、トキワナズナが。』とある。
更に、5月の月の下でコヨーテが遠吠えする頃になると、ムラサキツユクサやブラックアイドスーザンといった丈の高い草が小花から光と水を奪い、やがて小花は枯れてしまう事象から、「花殺しの月(フラワー・キリング・ムーン)」と呼ぶと言う様な内容が続く。
ここで「コヨーテ」が登場する事が、とても興味深い。

モリーが、アーネストに対し、初見から彼の事を「ショミカシ(コヨーテ)」と呼んでいた。
コヨーテが直接花を殺す訳ではないが、コヨーテが鳴き出す頃に花が枯れてしまうと言う事が、今作の元となった事件が、アーネストが保留地にやってくるあたりから加速していく様子が、バタフライエフェクト的に言い表されていると思えた。
「お金とともに、別のものもやってきた」と言う様なセリフでも語られている。

また、アメリカで月毎に満月の呼び名が変わると言う事が、ネイティブアメリカン由来の言葉であると言う事は、おそらくアメリカ在住の方であればご存知の事なのではないかなと思えるので、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン(フラワームーンの殺人者)』の「フラワームーン」の部分が、ネイティブアメリカンを意味していると気が付くのではないかと考える。


・ストーリー
史実をベースにした物語と言う事で、まず膨大な取材の元に原作を書き上げたデイヴィット・グラン氏に感服。
そして、マーティン・スコセッシ監督とエリック・ロス氏によるFBI目線で語られていたとされる初期の脚本を、レオナルド・ディカプリオ氏が突き返し、オセージ・ネーションの内側から描く形で書き直した事で、より深くその当時の「暮らし」が見えてくる表現となったとも言われており、まさにその通りだなと思った。
犯罪に手を染める者、裏切られて被害に遭う者、それらを利用する者、様々な思惑が交錯する心理描写の数々は、この変更があったからこそ生まれたのだと思われる。

今作は、3部構成からなる原作の内の2部までを中心に描かれており、原作の第3部に書かれているその他の犯罪やその犯人、また更なる陰の支配者の存在が捜査打ち切りにより闇に葬られてしまった事、彼らの子孫がその土地で暮らす様子などは、ラジオドラマとイン・ロン・スカと言う踊りの祭典の描写などで語るにとどめ、詳細は描かれていない。

その事で、ストーリーはシンプルになり、心の深淵まで迫る心理描写が凄まじくなった印象。
また、このアーネストとキングが関与した事件がこの時代の一連の事件の氷山の一角である事、被害者の血が土地に染み込んでいる事、そして現代に続いている事などが、かえって印象的に余韻として感じられた。



【印象的なシーン】
・嵐
恋愛関係時代のアーネストとモリーが、食後にウイスキーを飲もうとしているシーン。
雨が強まり嵐となった為、窓を閉めようとするアーネストをモリーが制する。
「嵐にはパワーがある。静かに待つの。」と話していた。
その発言についてアーネストが更に質問を投げかけるも、「黙って」と言い、じっと座って居る。
自然と共に暮らしてきたオセージ族らネイティブアメリカンの哲学が詰まっている様でもあり、そしてとても厳かなシーンでもあった。
ポスタービジュアルが完成する以前、Filmarksのイメージ画像などでも使用されていたのは、おそらくこのシーンと思われる。

最後、エンドロールでも何かしらの楽曲では無く嵐の音が流れるのだが、このシーンを思い出しながら、クレジットの嵐をただ黙ってじっと座って待つ事が、なんだかとても大切で、ごく自然な事の様に感じていた。
この嵐の音が流れるエンドロールを、ただ黙って座る為に、もう一度鑑賞したいとさえ思えた。


・フクロウ
フクロウは、ネイティブアメリカンの間では、夜行性であると言う事が不吉とされ、死者と交信する事が出来る動物としても知られ、死期が迫っているモリーの母と、死が間近にまで迫る程体調を崩したモリーが夢うつつで目にしている。
とてもスピリチュアルな表現だが、体力低下に伴う幻覚症状と言う形で現れる事で、非スピリチュアル思考の者にとっても理解が及ぶのでは無いかと思えた。

また、モリーの母の最後では、先祖や祖先の姿の人間が現れ、手を引き、川の向こうへと連れていく。
祖霊崇拝を重んじるネイティブアメリカン達の死生観を描いた、幻想的で荘厳な映像だった。

また、フリーメイソンが登場するので、都市伝説的な意味合いのサブリミナル表現にも思えた。


・ハエ
何度かアーネストにたかるハエを、仕切りに気にして追い払う様子が映し出される。
ハエは汚物や腐敗したものなどの臭いを好むと言う習性があるらしく、おそらくはこのシーンはアーネストが汚れた存在である事や心根が腐敗してしまっていると言う事をサブリミナル的に表現していると思われる。
更に言えば、たかってくるハエを嫌がり、必死に振り払う様子は、なんとか自分のキレイな部分を保とうとしたり腐ってはならないと現実に抗う様子とも捉えられる。
これらを踏まえると、ハエは間接的に叔父のキングを表している様にも思える。
最終的に、自らの妻への愛を証明する為に、証言台で叔父の悪事を暴く。
更に、離婚と言う結果は愛の終焉とも言えるが、アーネストとモリーの場合にはそれは必ずしも当てはまらないと感じる。
理由は、離婚してしまえば、モリーの財産をアーネストは放棄する事になるからで、アーネストがお金の為に一緒になったのでは無いと言う最大の証明とも言える。
モリーはアーネストと一緒になった時、初婚でもなければ離婚もしていなかった。現代では重婚となるのだろう。
アーネストが離婚に応じなくても、モリーは新しく結婚が出来たはずだが、しっかりと離婚したとあり、一番良い形におさまったなと思えた。

また、エンドロールでもハエの音が聞こえるが、これは自らの心に汚れた部分や腐敗した部分は無いか?と問われているかの様でもあった。


・髭剃り
ロバート・デ・ニーロ氏演じるキングが、バーバーで髭剃りをしているシーンが、映画「アンタッチャブル」での同氏が演じた同様のシーンを彷彿とさせる。
上記のシーンをご存知の方は、おそらくヒリヒリした映像だと思えたのでは無いだろうか。


・ラジオドラマ
これは、FBIの功績を世間に宣伝する事が目的で作られ、ラジオ番組「ラッキーストライク・アワー」との共同制作によるものであると、原作を読んで知った。
ミュージシャンのジャック・ホワイト氏や、マーティン・スコセッシ監督自らがこのシーンで出演されている。

J・エドガー・フーヴァー長官の功績として語られ広く知られたと言うのが通説らしいが、原作によるとそれは、自らの手柄を称える為、大物であるロバート・デ・ニーロ氏演じるキングことウィリアム・K・ヘイルと、レオナルド・ディカプリオ氏演じるアーネスト・バークハートを逮捕し有罪に持ち込んだところで捜査を打ち切り、その他の事件の被害者についてはそのままとなってしまったとあった。



・「イン・ロン・スカ」
ラスト、現代と思われる時代の祭りの様子は、毎年6月の週末に、数回にわたり開催されると言うダンスの祭典「イン・ロン・スカ」の様子。
聖霊ワカンダとの交信に使用される太鼓の周りに男性の奏者と歌い手、その周りにレディ・シンガーズと呼ばれる女性の歌い手、更に外側に膝下に鈴を付けたり、頭部に飾りを付けたりなどして、反時計回りにステップを踏む。
これを真上から撮影し、徐々にズームアウトする映像でエンドロールへと繋がるのだが、なぜ反時計回りなのかと考えていたが、原作によると、地球の自転を称えてその様に回るのだと書いてあり納得。


その他
・冒頭のネイティブアメリカンの儀式
・石油噴出を祝い石油を浴びながら踊る
・戦地から帰還後に病歴を聞く
・街中でのカーレース(ギャンブル)
・バッタの焼き払い?
など、印象深いシーン目白押し。

特に石油を浴びるシーンは、原作にその様な表現があり、実際に彼らがその様にして喜んで居たのだと知り、二重で驚いた。
自分だったら、いくら嬉しくても石油を浴びたりはしないだろうと思うが、この感覚は私が日本人だからだろうか、それとも現代人だからなのだろうか、などと考えてしまった。

また、生き物の死骸などから石油が生成されている事を考えると、遥か未来のこの土地で暮らす生命体が、オセージ族達の死屍から出来た燃料を有り難がる日が来るのかも知れないなどとも思った。



【お酒】
1920年代が中心のお話なので、アメリカ全土で禁酒法が施行されている時代故に、登場するお酒のほとんどが密造酒。

嵐の夜に、モリーがアーネストに振る舞おうとするお酒は、名称を不覚にも失念してしまったので確証がないが「ペツォリ?」だった様に思える。確認の為にも再鑑賞したい。
存じ上げない言葉なので、今後調べてみたいと思う。
上等なウイスキーだと言う内容だったので、禁酒法以前に仕入れた高級品なのかも知れない。
いずれにせよ、飲もうとした際に嵐となり、静かにじっとしているシーンとなるので、実際に味わっているシーンはない。
他の密造酒などの瓶とは違い、装飾も施されており、いかにも高級そうな雰囲気が漂っている。


密造酒を製造しているシーンでは、蒸溜器なども映し出されており、とても興味深い。
密造酒の蒸溜器としてはかなり大きなサイズで、陽の光の下で堂々と生産されていた。
原作によると、この銅製の蒸溜器は500ガロン(約1,890リットル)なのだそうだ。
一体何基あるのかは不明だが、今作同様に事実に基づいた小説原作で、密造酒を作る兄弟たちのタフな生き様を描いた映画「欲望のバージニア」では、設備投資をして蒸溜所に300ガロン(約1,200リットル)の蒸溜器を4基構えたと言う事を誇らしげに語り、周囲の者がその規模に驚く様子があるが、それよりもひとつあたりのサイズは今作の蒸溜器の方が大きいと言うのだから凄い。
また、立地自体が人目の付かない森の中なのだとは思うが、後ろでなびいている黒い布が、施設を隠すには心許ないサイズな上に見るも無惨なボロきれの様で、あまり目隠しの意味を成さない様に思えた。ひょっとしたら何か別の意味があるのかも知れない、とさえ思えた。

原作では、「もはやこの土地でのムーンシャイン(密造酒を意味するスラングで、由来は後述の内容からと言われている)造りは、かつての様に人目を避けて『月夜』に生産すると言う必要が無くなった」と言った内容の話があったが、このシーンでその再現性の高さを感じた。
地元の警察組織が、こう言った場面でも機能していない様に描かれている。



【総括】
ド派手なアクションは基本的には無いが、ストーリーの展開、登場人物の心理描写、見応えがあるシーンなどが目白押しで、本当にあっという間の3時間半。

デイビット・グラン氏の徹底的な取材による歴史的一冊が原作、マーティン・スコセッシ監督の最高の名采配、エリック・ロス氏との息を呑む展開の共同脚本、レオナルド・ディカプリオ氏、ロバート・デ・ニーロ氏をはじめとする出演者の方々の心をえぐってくる様な普遍的な心理描写、その時代その土地のリアルな息遣いが聞こえてくる舞台美術、どれをとっても素晴らしい。

これが事実だったと言う事を思うと、適切な言葉が見つからない。


奪い合えば足らず、分け合えば余る。
自利利他の精神を大切にしたいと考えさせられる作品。
Arata

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