ジャン黒糖

オッペンハイマーのジャン黒糖のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.3
遂に日本公開!
本当にありがとう!ビターズエンド!!
もう映画館では観られないと思ったけど、結果海外の評価を受けて(?)、日本でも300館を超える劇場でIMAX、dolby atmosを含む大きなスクリーンで観られるだなんて!

ただ!実際に観てみると、様々な賞レースを経て評価がある程度定まる前に観るべき作品だったと思ったし、欲を言えばやはり各国と同時期に日本でも公開して欲しかった。
というぐらい、本作が興行的にも批評的にも昨年を代表する作品であったことと、本作で描かれる主要人物たちの原爆に対する捉え方には、共通して日本人として価値観の"距離感"を感じ、なんなら歯痒ささえ鑑賞中は感じていた。
そして、この映画を観て感じた"歯痒さ"は、先月行われたアカデミー賞受賞式の壇上であったロバート・ダウニー・Jrのあの"疑惑"の瞬間を見た時の、気にしなくても良いかもしれないけど良い想いはしなかった距離感にも似通っている気がした。


ちなみに、一応補足すると自分はクリストファー・ノーラン監督作は『フォロウイング』以降の監督作全部観ているぐらいには、基本的に好きではある。
『インセプション』における主人公コブは果たして夢から抜け出せたのか否か、『テネット』におけるニールの最後はどうなったのか、主人公はその後どうなるのか、など観客に考察の余地を残す作品が多く、自分自身も病みつきになる。

本作における考察の余地とはすなわち、オッペンハイマーという様々な面で矛盾の多い人物をどう捉えるか、世界を滅ぼす可能性が"ほぼゼロ"の核が生み出された以降の世界を生きる我々は核をどう捉えるべきか。
これまでのノーラン作品がそうだったように、本作もまた観客に解釈を委ねてくる。

ただ、本作に関して、特に後者の核保有に関する問いは観客に委ねちゃって良かったのか。
観終わって感じたモヤモヤはそこだった。


オッペンハイマーは原爆の父と呼ばれ、論文を年に何本も発表するほど才能に溢れていた。
その一方でジーン・タトロックやキティとの関係、お世話になっている教授のリンゴへの青酸カリ混入など、情緒不安定な行動や周囲を困惑させる決して褒められたものではない一面もあった。

そんな矛盾だらけの男が生み出した原爆。
世界の戦争を終わらせることを目的に開発を進めていた原爆が、結果を崩壊の危機に晒してしまう。

劇中、オッペンハイマーは光の構造について、粒子と波動という矛盾した性質を持つことを説く場面がある。
光がそうであるように人もまた相反する考えを併せ持つことがある。



ただ、原爆は、早かれ遅かれ大勢の命を奪い取った。
NHKのクローズアップ現代でのノーラン監督インタビューで「自分の子供たちが核兵器に関する関心が薄いことに驚いた。本作では核兵器の脅威について若者に伝えたかった」と語っていた。


ん、ん…?
だとしたら見せ方として、観客の感性に委ねたい矛盾の多いオッペンハイマーという男の是非と、核の脅威という観客に伝えるべき焦点の塩梅が中途半端じゃないか??


ノーラン監督は本作を撮るにあたって並々ならぬ調査をしたハズ。
だからこそ、あるショッキングな場面では身を裂く想いで撮影したであろうノーランの理屈もわからなくもない。
でも、そんな撮影裏話、観終わって調べて初めて知った理屈であって、劇中知らずに観た自分からすればノーラン監督が撮りながら如何に苦しんだかなんて知る由もない。

小学生の頃から社会勉強で広島や長崎のことを習い、学校の図書館で『はだしのゲン』を読んでは描写に背筋凍ったことのある自分からしてあの場面は、理屈なんて抜きにただただ脊髄反射的に「そんなもんじゃないだろ」と思った。

折角ああいった演出をするのならば、たとえばあの場にいる人たち全員が一瞬で…とか、そこから移動しようにも目に映る人たちが次々と…とか、もっと瞬時にもっと大規模に失われる瞬間を描かないと「原爆は多くの人の命を早かれ遅かれ奪い取る」という矛盾なき絶対的悪しき存在が際立たないと思った。


ただ、天才と云われたオッペンハイマーさえ被爆の恐ろしさや被害の大きさを事前にちゃんと想像出来ていなかった、想像出来てたとしてもこの程度だった、という彼の考えの至らなさを表した描写だとも考えられる。

ただ、これが彼の考えの至らなさだとしたらそれはそれで映画内外の出来事さえリンクして見えてしまった、
たとえばナチスドイツに対抗すべく開発を進めた原爆を対抗馬なきあと日本に落とした経緯、ロバート・ダウニー・Jrのアカデミー賞授賞式での壇上で無意識的にせよ取ってしまった疑惑の所作、アカデミー賞授賞式の場でキリアン・マーフィー以外は特段核に関して明言しなかったこと。
そしてこれが2023年を代表する1本として様々な賞レースを席巻したこと。
考えすぎかもしれないが、色々なことがこれを観終わったあと結び付いてしまった。

結局本作は、未だに核保有に正当性を根強く抱くアメリカ人のためのアメリカ映画だったのだろうな、と。
(ノーランはイギリス人だけど)


後ほどリンクを貼っておくけど、日本に原爆を落としたことに関するGallupサーベイの結果によれば、アメリカでは1945年時点で85%、2005年時点では57%が広島・長崎への原爆投下に賛成と回答したという。

また、原爆投下が正当化されるかに関するpew研究所のレポートでは2015年時点でアメリカ国内、56%が正当化できると回答したという。
勿論、この回答内訳には世代差があり、2015年時点で65歳以上は7割だったのに対し、およそ20代は半数以下だったという。

この2つのサーベイ結果を鵜呑みによれば、核兵器に対し未だに肯定的なマインドを持っているのは若者よりもむしろ高齢層ばかり。

ただ1点気を付けないといけないのは、2つのサーベイともオバマ政権時代に実施されたということ。
オバマ大統領といえば自ら広島を訪問した他、核セキュリティサミットを議長国として開催し、軍縮に向けた動きが見られた。

その頃に比べると、トランプ政権以降のムードには不安になる。
現に、先日もアメリカで下院議員がイスラエル軍の攻撃が続くガザについて「長崎や広島のようにあるべきだ、早く終わらせられる」と発言し、原爆を戦争の早期終結の手段と捉える発言をし、物議を醸した。


劇中でも語られる通り、ナチスドイツの降伏以降、世界の戦争を終わらせるという使命感が原子爆弾の開発、そして日本への投下に拍車をかけた側面は否めない。
彼らにとって、投下されていなければ広島長崎以上の被害規模を本土決戦でもたらしていたかもしれない可能性を阻止したこと、そして脅威によって結果戦争を終わらせたこと、こそ原爆の果たした大義だと捉える声もある。
たしかに、文面全体への脅威と化していたナチスや当時の日本のムード、もっといえば真珠湾における加害国としての日本の側面を思うとそう考える理屈も理解できなくもない。

ただ、だからといって大量虐殺を戦争を終える手段と認めて良いとは決して思わない。
現に劇中語られてはいないが、トリニティ実験で被爆し、亡くなったアメリカ側科学者も少なくなかったという。
ただ、そういった側面は本編では描かれない。


若者はそもそも核兵器使用の是非に対し、関心も正当性も中立的なバランスにあり、むしろ核兵器の脅威を見せ付ける意図があるとすればそれは終戦前後に生まれた彼らの世代にも伝わるぐらい、鮮烈に描くべきだったのでは。



だからこそ、オッペンハイマーが幻視した原爆被害はもっとショッキングに描かないと伝わらないだろう、という物足りなさを感じた。
また、その点トリニティ実験での肝心な爆破シーンも、全然原爆に見えなかったのは核兵器の脅威を伝えたかったというノーラン監督の目論みからすれば本末転倒に感じた。
テネットにおける本物の飛行機を使った突撃シーンといい、なぜノーラン監督作の見せ場と言うべきシーンは毎度若干の肩透かしを喰らってしまうのか…笑


そしてさらにこの場面、まだ1回しか本編観てないから見間違いだったら申し訳ないけど、強烈に反応に困った描写があった。

遂に10カウントののち、天に昇る勢いで爆発する炎(原爆には見えない)を映しながらオッペンハイマーの発言としても有名なセリフとオッペンハイマーの息遣いが被さる。

この有名なセリフ、たしか前半でも一度、彼の当時の恋人ジーンとの、とある場面で彼自ら同じセリフを口にし、彼は目の前で起きる出来事を前に吐息を洩らす。

同じセリフを1回目と2回目で語る場面、息遣い。


えっ…これはイギリス人流のブラックジョークか何かですか笑
まさかとは思うけど…そそり立つ原爆の炎は、まるでいまにも爆発しそうな男のアソコってギャグ…?

ただでさえ原爆に見えなかったうえにリアクションに困る演出に、わりと興醒めしてしまった。
(見間違いだったらすません)



と言う訳で、他にも普通に演出として気になる場面がこの映画は多かった。


原案となったカイ・バード&マーティン・J・シャーウィンの評伝『アメリカン プロメテウス』で地の文で書かれていた、たとえばキティがオッペンハイマーと出会うまでの経緯がそのまま会話セリフで描写されるのとか、演出として上手いとは思えず…。
ドイツにウラン核の分裂を発見を先越されたことに驚いた仲間が床屋から慌てて飛び出る場面なんか、無駄に原案に忠実で笑ってしまった笑
日本だと今年文庫化された上中下巻の大ボリュームを、見事まとめ上げたという見方もできる脚色だけど、3時間ひたすらセリフの応酬の本作においては、ひたすら性急にピックアップされ、且つほとんどを画的にではなく言葉で描写しようとするのはちょっと1回観ただけでは、原作を読んでいてもしんどかった。。


他にも、「ここは静寂!」という場面以外はずっとルドヴィゴ・ヨランソンの曲が流れるのもうるさい。笑
ストロースの公聴会は、結果オッペンハイマーの是非を観客に委ねるにはフェアネスに欠けるので無くても良かった。
本作はオッペンハイマーにまつわる映画だから、と広島・長崎の被害をオミットしたわりに核使用に関する責任はトルーマン、オッペンハイマーに関する責任はストロースが負う構図に結果なってしまっていたり、かたやマンハッタン計画の全てを把握してたであろう軍人レズリー・グローヴスの罪深さはまるで描かれないバランスは気になった。

そして、本編最後をあの人のセリフで〆る感じもしてやったり感があって好きになれない。
というか、あのラストのセリフはオッペンハイマー=ノーラン監督、と置き換えて捉えるとだいぶ気持ち悪いな、と。。



ということで、個人的にはわりとノーラン監督の嫌な部分が目立った本作。
ただ、役者たちの演技は良かった。

主要人物たちの演技は言うまでもなく最高なのさ勿論のこと、お久しぶりに観た方達のキャスティングも良かった。
ジョシュ・ハートネット、ディーン・デハーンは久しぶりに観たけどやっぱすっきゃねん!笑

しかし、そんな良かった役者たちの演技に目が離せなくなるかと思いきや、テンポの早い編集でひたすらシーンが切り替わるので、なかなか役者に引き込まらせてくれない!笑

なので、やはり脚色、編集、特殊技術などの面で自分はあんま好きになれなかった…


けど、だからといってアカデミー賞が相応しくないかというとそんなことは全くなく、本作が注目されたことで、池の水の波紋(と地球各地で勃発する核兵器によるディストピアが画的に重なる)の如く、人々が議論するきっかけになったことは間違いない。
ただ、議論するには日本公開が遅かったことが悔やまれる。

核保有、どんな理由あれど自分的にはNoだし、ノーランもNoだよね…?
という不安の残る本作が、2023年を代表するとして海外での評価が固まった状態で観に行くのは歯痒さのある体験だった。
ジャン黒糖

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