ぷかしりまる

普通の人びと:彼らを駆り立てる狂気のぷかしりまるのレビュー・感想・評価

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第101警察予備大隊は、銃殺によるユダヤ人の大虐殺に加担した。彼らは際立った大量殺人部隊だったが、ナチではなく(ユダヤ人差別の思想イデオロギーはなく)元々大工などの職についていた、ふつうの人々だった。さらに銃殺は強制ではなく、罰則も全くなかったという。それでは、なぜ彼らは大量虐殺を行えたのかという作品。

わたしは、誰もが、環境次第では殺人者になりうる。大量虐殺のための第一歩は、自分と彼らのあいだに線引きをすること。ドイツ人によるユダヤ人の公的な排除(水晶の夜やゲットー)によって、彼らに暴力を働く気持ちは自然と育ったという。それは民間人によるユダヤ人殺害、ポグロムに現れている。
自分と違う下の人間には暴力を働いていいという意識は、外の目がないとき、例えば家庭内暴力や児童虐待で起こりやすい、なぜなら家の中は外の目が届かない治外法権だから(ハンナ・アーレントの言う共通世界ってこういうこと?)。

第101警察大隊に、民間人射殺という目標は抽象的に伝えられた。最初彼らは何をするのか知らなかった。はじめ上官は射殺の任務を涙ながらに伝え、そのときに「気の進まないものは任務から離れてもいい」と言った。それと同時に「これは自分の命令ではない、自分を見捨てないでくれ」と言った。
これは強制と自由の組み合わせだ。そして任務を辞退しても、その代わりに仲間が犠牲になるといわれたと言う。また彼らは臆病者と隊のメンバーに臆病者と罵られた。隊は常に生活を共にし、そこで精神的な社会的制裁、つまり他からどう思われるかという恥の意識が虐殺に加担する要因になったそうだ。
しかし彼らは単に服従し機械的に殺人を行っていたわけではなく、虐殺への葛藤を抱えていた。虐殺を許容する理由づけとして、汚れ仕事の必要性や道徳的に正しい罪滅ぼしだと、歴史的責務だと思い込んだ。自分は歯車の一つで仕方がないという官僚主義。彼らは汚い任務を押し付けられ、戦後に裁かれる自らを犠牲者だと感じ、哀れんだ。だからこそ犠牲者に対する哀れみも、後悔も罪悪感もなく、自らの行為に責任を感じていなかった。また彼らは人を殺すことに順応した。最初の数回の殺害については鮮明に覚えているが、あとの記憶は不明瞭だという。
これは『日本鬼子』における虐殺・自己正当化のプロセスと全く同じだった。全体主義と仲間はずれ、責任逃れ。きっと、虐殺者にとって被害者は人間以下なのだから、哀れむことも、罪悪感を抱くこともないのだろう。

作品の中で、貴重な(?)ユダヤ人射殺の映像や、射殺される運命にある裸にむかれて穴に立たされる女たちの写真が出てきて、これは確かに証言だけれども、見せ物になってしまっていないかとモヤモヤした。

感想
『普通の人びと』の文庫版、途中まで読んで返却していたので概要を知れてありがたい…