ぷかしりまる

質屋のぷかしりまるのネタバレレビュー・内容・結末

質屋(1964年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

シドニールメット監督繋がりで、『旅立ちの時』を思い出した。わたしはその原題の、Running on Emptyが好きだ。空虚の上を進み続けること。それは思想の為に自分の人生を犠牲にし、子どもたちにもそのような生活を強いる反戦活動家が、自分の人生に意味があったのかと振り返ること。この映画もそうだ。
さすがにここまではされないはずだろう、という世界に対する信頼を打ち砕かれたひとが、生き延びたあと金にだけは信頼を置くが、己の間違いに気づいた時にはもはや後戻りできない。仏も神もない世界に、信頼できる拠り所を探し求めたひとが、それは何の役にも立たなかったと振りかえらざるを得ない。
それからの彼の描写は、時間感覚を失い、あてもなく歩き続けているようだった。街の中を、トンネルの中を、朝の光の中を歩き続ける。たどり着いたアパートの住人に「わたしは何もできなかった」と話し、「あなたに何もしてあげられない」と返される。視線は交わらず、伸ばされた手は繋がれない。ひとは己の苦しみをひとりきりで背負うしかないのだと告げるような場面だ。
それでもこの映画がすごいのは、たとえ語る言葉が独白であろうと、自分の為に話すことと聞かれることの絶対的な必要性が示されていることだった。質屋の客は、主人公に話しかけ続ける。何か言葉を返されるためにではなく、自分の考えを話すことが彼にとって重要だから。主人公もそうで、言葉にするために誰か聞いてくれるひとを欲していた。話す相手には以前「わたしにかかわらないでください」と言っていたけれど。
ひとは己の苦しみをひとりきりで背負うしかないのだし、その全てを理解されることはありえないけれど、それでも誰かがそばにいることはできる。聞くひとは確かに何もできないかもしれないけれど、話すひとが言葉にするために、聞くことはできる。

フラッシュバックの映像が、パラパラ…とページをめくるように挿入される演出。その間も現実は続いていく。過去と現実とが共にあること。