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沈黙のKuutaのレビュー・感想・評価

沈黙(1962年製作の映画)
4.2
光の演出家、ベルイマン

冒頭が怖い。列車が動いている音はするが、車窓に映る風景が全然変わらない。明らかにヤバい場所に向かっている。列車自体が、死に向かう人間の運命の象徴なのだろうか。

主人公の少年は、四角い窓越しに戦車の影がぱっぱっと点滅する様子を観察し、太陽を見つめている。彼は映画監督であり、ベルイマン自身である。

一緒に旅をしているのは、奔放な少年の母と、病で死にかけているその妹。顔にかかる影が半分ずつになる「ペルソナ」と同じ演出もあり、本能と理性、対照的な性質が2人のキャラクターに投影されていると言える。

妹の療養のため、3人はどこだか分からない街で下車する。母は早速、ホテルの外の人間界に降りると、人混みをかき分けて男を引っ掛ける。一方、病床の妹は翻訳家として多彩な言語を操り、抽象的な世界に沈み込む。左手首にお洒落なリングを付ける母と、腕時計をする妹の対比が効いている。

ホテルでの室内劇が中心となる。まともな会話の切り返しはほとんどなく、目線の断絶、立ち位置の前後のズレ、「光と影」によって、コミュニケーションと、その失敗が描かれていく。

色んなところで不快な音が鳴っている作品ではあるが、基本的に言葉が通じない異国のため、「身振り手振り」で彼らは生活する。

母親と懇意になるウェイター、妹を世話してくれるホテルの給仕、少年が出会う小人症のサーカス団。3人はいずれも言葉や聴覚ではなく、視覚によるコミュニケーションを通して「愛=ベルイマン作品における神」を知覚していく。

ここで重要になるのが「光源」の存在だ。

究極の光源である太陽を直視したのは、冒頭の少年だけ。母親はカーテンを閉めてしまうし、セックスでは電気を消すように言う。

妹は死に向かう直前、孤独への恐怖からシーツを被って視界を遮るが、少年が剥がし取ったおかげで、外の光へ目線を向ける。但し、少年のように太陽=神を直視できたかについては、曖昧なままシーンが終わってしまう。残酷だ。

母親は太陽を気にしない。ホテルの二階から人間界を「見下ろして」ばかりで、神に気づけない。代わりに、生きている証を求めてシャワーに打たれ、外でも雨に打たれる(妹も死への恐怖から酒浸りになっている)。

小人症のサーカス団は身長が低いから必然的に「見上げる」し、少年も梯子に乗った人を見上げるし、妹も給仕を見上げ、それぞれ愛を知る。

プラトンの「太陽の比喩」で考えれば分かりやすいと思う。私たちは「善」を直接視認できず、「善によって輝かされたもの」を間接的に捉えることしかできない。人間は洞窟に閉じ込められた存在であり、太陽の光が生む「影」が、洞窟の壁に映った姿を見ることでのみ、外にあるイデアを類推できる。

ホテルや列車は一種の洞窟である。上記したように、少年は列車から戦車の影を捉えているし、ホテルで影絵を作って遊ぶシーンもある。彼は、不可視な善のイデア(神)に意識を向けられる存在だと言える。

つまり今作は、神に対する実存的不安を「光をどこまで信じられるか」という視覚的な問題に置き換えている。光と影のコントラストで「見えるもの、見えないもの」を演出する少年は、繰り返すが映画監督であり、ベルイマン自身が映画を通して神を描いている、というメタな構造を持っている。

「冬の光」で急に外が明るくなったり、「鏡の中にある如く」で、信仰を失いかける父親が昼とも夜とも判別できない夕暮れの中に佇んだり。ミッドサマーでずっと明るいスウェーデンが舞台となったように、そもそも太陽の光が不安定なスウェーデンで生まれ育ったからこそ、神への不安もテーマにしやすいのかなと思った。84点。
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