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秋津温泉のKuutaのレビュー・感想・評価

秋津温泉(1962年製作の映画)
4.2
面白かった。岡田茉莉子の演技がすごい、役者の映画なのかなぁとぼんやり見始めて、実際彼女の演技は素晴らしかったけれど、それ以上に今作は、構図とアクションで人の心を描いている。好きなタイプの作品だった。日本版ダグラスサークのメロドラマ、というと大袈裟か。

木の枝や襖を使ったフレームの演出はもとより、特徴的なのは、2人の人物がいる時、必ず片方がアクションを「先導する」点だ。冒頭から主人公の男(長門裕之)は空襲で焼け出されている。旅館の娘(岡田茉莉子)は秋津温泉という異空間に閉じ込められているが、川を渡ったりフレームを超えるアクションで、画面を先導する。岡田茉莉子が小走りに駆け出し、カメラが追いかける、というシーンが何度も出てくる。

秋津温泉の中では男は女を追いかけ、外の世界では逆に女が男を追いかける。女は津山まで逃げる男を追いかけ、追い抜いて、止める。シーソーゲームが常にアクションになっているので「ずっと見てられるやつだなぁ」と感じていた。

例えば、見せ場となる駅での別れの場面。
①男が列車内から女を見送る②ホームを歩く女が階段の前で立ち止まる③列車が動き出し、女を追い抜く④女は列車を追いかけ、ホームに残される。
①男が残される側②運動が止まる③女が残される側に④引き止めようとするが及ばない=悲痛さの強調
こんな感じで行ったり来たりを繰り返している。特に津山でのデートシーンは、体の入れ替えと振り返る動作が連発されている。

2人は戦時下の日本で爪弾きに遭う孤独な存在。抑圧が外れる終戦の日、片方は死を、片方は生を同時に見ることで、2人は表裏一体の存在になってしまう。山あいに広がる空に束の間の開放感を味わう。

しかし両者は対等ではない。男は旅館の客であり、一方的に来て、一方的に消える。女によるフレームの越境は秋津温泉の中の擬似的な自由に過ぎず、男女の間には根本的な非対称性が横たわっている。男が旅館を数年おきに尋ね、その度に2人の心情がすれ違う、という「同型反復と小さな変化」が繰り返される。初めて出会った時、女は複数の鏡を前に別の顔を見せるが、年齢と共に可能性は収束し、一つの鏡すら見なくなる。最後に一夜を共にする場面の、岡田茉莉子の決定的に焦点の合わない目、すれ違う視線。

川に身を沈める男には自殺願望があったが、そうした「悪い事」は、自らに生きる希望を与えてくれた女に移植される。飽きるほど同じ音楽が流れる秋津温泉で、女は朽ちていく。ラストシーンで男女の立場は完全に入れ替わっている。両者の非対称性を打ち破るように、女は見送るばかりの立場を捨てて、見送られる立場になる。川と同化し、現れては消える永遠の輪廻となる。生と死の逆転、同型反復を象徴するように流れる川と散る桜が捉えられる。
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