Kuuta

カリスマのKuutaのレビュー・感想・評価

カリスマ(1999年製作の映画)
3.9
・黒沢清は「人はドアの向こう側に恐怖する」という。空っぽの箱なのに、箱だと知覚した瞬間、中身を意識し、意味を見出してしまう。

ホラー表現に留まらず、そもそも映画は作り物の箱だ。それでも私たちは映画に魅入られる。黒沢清は「正体不明のパンドラの箱を開けた結果、世界が崩壊する話」を繰り返し描いている。映画が現実に侵食し、私たちを楽しませたり、怖がらせたりすること。黒沢清は「映画が現実に溶け出してしまう世界」を描いている。

例えば回路の「開かずの間」は、白い窓=スクリーンを模していた。今作のパンドラの箱はカリスマ、すなわち木だ。人々は木に意味を見出し、右往左往する。世界の命運を握っているのかもわからないまま、害悪だと憎む人がいたり、後から現れて儲けようとする人がいる。

カリスマは自ら発光しており、暗い廃墟に住む池内博之の顔を照らす。役所広司は「御託はいいからとりあえず見ろ」と言わんばかりに、人々を周りの椅子に座らせる。今作は台車や車椅子がたびたび登場し、カリスマに魅入られた人を座席ごと移動させることで、観客を別世界に誘っている。
(池内博之はタルコフスキーに心酔するファン、見るからに作り物の木に頑張って手を入れる役所広司は、自分なりに映画を撮る黒沢清、という配置で私は見ていた。「平凡な木が生えているだけ、特別な木なんてない」)

隠喩を重ね、わかりやすい理解を拒む今作。煙に巻かれるほど、観客は意味を求めて夢中になる。こうして今作、そして黒沢清自身がカリスマになる、というわけだ。

言うまでもなく「カリスマ=映画」も私の意味づけに過ぎず、この文章を書いた時点でカリスマは私の指からこぼれ落ちている。

どうにでも解釈できる、それこそが映画だ、という佇まいの作品なので、深入りしても無駄だと知りつつ、私なりに感じたことを残しておくと、老人の重みで若者が死ぬ話に見えた(池内博之は介護に追われ、社会から見放された貧困家族のよう)。受け取り方によっては、生きるために障害者や老人を殺していく話にもなるのでは…?と暗い想像をしてしまった。

また、翌年公開のヴェルクマイスターハーモニーと話がよく似ている。世紀末の終末観ということなのだろうか。

・日本刀を突き刺す場面は本当に良い。画面から貞子が出てきて観客に襲いかかるのと同じ演出だと理解したが、まさに観客が殺される絵面であり、向こう側から侵食されることを体を突き抜ける刀、というビジュアル一発で示している。恐怖演出として見事だし、どうやって撮っているのかよくわからないが、こういう工夫を見るのが何より楽しい。

・脚本はネタやアレゴリーを詰め込み過ぎな印象でやや消化不良だが、映像の美しさにはひたすら目を見張った。心地よいミドルショットをボーッと眺めていると、急にこちらに牙を向けてくる。この緩急こそ黒沢清。

映画の転換点は風吹ジュンが「カリスマと世界を共存させる方法はない」と断言する場面だろう。作中で初めて会話が切り返され、世界の分離が始まる。

カリスマを燃やした後、姉妹が部屋でくつろぐ姿を定点観測する場面。風に揺られた白いカーテンが室内に入り込み、侵食の予感を伝えている。

風吹ジュン演じる学者の家が明るく、白く、平面的な開放感があるのに対し、池内博之の廃墟は暗く、階段を使った縦の目線の往来がある。両者を繋ぐ森は光と影が入り混じる空間で、樹木や枝の擬似的なフレームがあるものの、木が根こそぎ倒れることで崩壊していく。面白いアイデア。
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