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殺しの烙印のnetfilmsのレビュー・感想・評価

殺しの烙印(1967年製作の映画)
4.4
 殺し屋No.3はいつかNo.1になることを夢見ているのだが、No.1は秘密のベールに包まれたままである。だが組織の命令に失敗した主人公は死の恐怖に憑りつかれているというのが今作の骨子だと思うのだが、もしかしたらとんでもない筆者の思い違いかもしれない。若い頃からそれこそ何十回と観ているはずだが、それでも今作の物語は迂闊には口外できない。とりあえず花田五郎(宍戸錠)には少し性欲の強い妻(小川万里子)がいて、同時にファム・ファタールのような冷たい瞳の女性・美沙子(真理アンヌ)に惹かれているというのはわかるのだが、全ては夢幻の世界の出来事であるように、終わった後に全ての記憶を焼き払い、いずれ抹消される。その感覚があまりにも気持ち良くて、今作を繰り返し観ている。60年代の清順映画の成熟を支えたのは、小林旭でも高橋英樹でも和田浩二でもなく、誰よりも野蛮な宍戸錠だった。若者に思いを託す場合は学生になり、20歳を越えれば男なら仁侠の世界か、女であれば売春宿で文字通り、身体を投げ出す(投げ売る)ことでしか自らの身体性を獲得出来なかった60年代清順映画の登場人物たちは、ここでは男も女もただ闇雲にドンパチを繰り返す。

 人間はいつか必ず死ぬ。それは人類全てに与えられた運命であり、遅かれ早かれ生きている人は絶対に死に絶える時を迎える。だが生と死の隣り合わせのダイナミズムを殺し屋の人生になぞらえたに過ぎぬこの途方もない傑作をもって、鈴木清順は日活から専属監督契約を打ち切られた。映画同様に、個人の尊厳は組織に殺されたのだ。日活の社長だった堀久作のその後の発言や行動には明らかに行き過ぎた内容もあったが、「わけのわからない映画を作る」という言葉だけは大いに頷けた。これまで39作も積み重ねて来た監督の経験値は相当なもので、出来の良いプログラム・ピクチュアを作ろうという想いは毎度持っていたし、完成に至る苦労やプレッシャーも深刻だったはずだが、それを加味しても日活上層部は物語の筋が読めない映画を到底面白いと思えなかった。だいたい平均して1本6000万円かかる当時の映画作りは、現代の物価に直せばそれ相当の痛い出費だったかもしれないし、確かに清順はまともな黒字をほとんど出せなかったのかもしれないが、当たり前のように映画は会社の駒ではない。映画は時に作り手の思いを越え、時代さえも越えて行く大変貴重なものだ。

 清順の映画はベルト・コンベアー式に作られた工業製品とは似ても似つかない歪なものだった。だが予算や納期を守ることは絶対条件だとしても、清順にも会社を説得すべき適切な言葉が見つからなかった。みんな右に倣えで、会社から与えられた仕事をそつなくこなすのがプロと呼ばれる世界で、清順の映画はそこから逸脱した記憶に残る映画を連発した。地に足の着かない登場人物たちがのさばる映画に上層部は言語道断との思いを抱いた。もしかしたら毎度毎度の直しの命令に監督としては、ほとほとうんざりしていたかもしれないし、作り手としての圧倒的なオリジナリティが、会社人としての常識的な振る舞いを上回っていたかもしれない。だがあまりにも不幸な追放劇により、清順はピークを迎えていた10年をほとんど棒に振ることとなった。
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