きの

残菊物語のきののレビュー・感想・評価

残菊物語(1939年製作の映画)
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1939 昭和14、松竹京都撮影所
戦前の溝口健二のトーキー



戦前の映画を色々見ようと思っていて、この前松竹蒲田撮影所の現代劇(小津安二郎『生まれてはみたけれど』1932)を観たので今回は京都撮影所のこちらを視聴。

(本当は『血と霊』『霧の港』『狂恋の女師匠』などが気になったのだけどフィルムが残っていないようなので)



村松梢風(村松友視の祖父!?)の同名小説が原作。
この小説は新派劇にもなっており、本作の主演俳優・花柳章太郎も新派の女形とのことで、新派とゆかりの深い作品のようだ。

よく「新派風の…」という形容詞を聞くので気になっていたけどこの一本だけ見ても新派というものの印象は掴みかねた。
題材や俳優を新派から採っているものをもう何作品か観てみたい。



時代は明治時代。梨園のおぼっちゃまの芸能地獄めぐりと、彼を救いつつ自らは社会の底辺で死んでいく女中・お徳の人生をロングショットと静的なカメラの横移動で淡々と描く。

お徳のきっぷの良さ・おせっかいさと菊之助の寂しさがふたりを対等な人間として結びつけるが、世間の目によって「男女」という関係性をとらざるを得なくなり、そこからは転げ落ちるように社会の底辺へとおいやられていく。

菊之助はその出自ゆえに再度梨園に引き上げられるが、お徳は言葉も違う縁もゆかりもない土地で朽ち果てていく。
梨園のおぼっちゃまとして拍手主喝采を浴びる菊之助と縁もゆかりもない土地で死んでいくお徳の対比、でも菊之助をその位置に戻したのはお徳であるということにお徳の誇り感じ、哀れで残酷なだけではない、いろんな感情を喚起するラストだった。



日本人にとっての世間や、縁故が無いということ、定住者ではないということについて考えさせられる。

現在でも自己啓発すれば自分の能力だけで生きていけるような夢を見させられているが、現実には出身地や親の太さ、コネなどがモノを言う場面は多々あり、残菊物語の世界と本質的には変わっていないように思う。そして、そのような世界で女性に産まれてしまうことの恐ろしさについてもてともよく描かれていて溜め息が漏れてしまった。

また菊之助・お徳が夫婦となるまでの描かれ方がリアルで怖かった。

夫婦になった後には妻という役割を演じるロールプレイ的な喜びや楽しさが感じられる場面はあるが、夫婦になるにあたっては、世間や菊之助の意地によって夫婦という型に嵌められているだけで、お徳の自由意志のようなものは感じられない。

お徳にとって菊之助の妻となることは抗えない、仕方のないことであるが、それでも被害者ぶらないで誇りを失わずに生きていこうとする。それがお徳にとってできる唯一の抵抗なのかもしれない。



梨園から追放され転落していく中で出会う女相撲取りや木賃宿の猿回しなど、歌舞伎が忘れてしまった日本のプリミティブな芸能の姿をフィルムに刻んでいるのが、映画自体が本来このような芸能の延長線上にあることを感じさせて興味深かった。
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